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2007漫遊記

ロ.阿倍野区彷徨

丸山古墳跡

お気に入りのショルダーの修理上がりを引き取るついでに、梅雨の真っ最中ではあるが、降りそうにない雰囲気なので、 以前からちょっと気になっていた帝塚山古墳を訪ねて見ることにした。
問題?は徒歩で巡るのか、チャリで巡るのか少々迷ったが、徒歩&チンチン電車を利用する事にした。 装備?はE410とgeko201、想定ルートは

  1. 難波から恵美須町
  2. 恵美須町から帝塚山3丁目 by ちんちん電車
  3. 帝塚山古墳
  4. 北畠顕家公墓所
  5. 安部晴明神社
  6. 丸山古墳跡
  7. 聖天山古墳
  8. 阿倍野区図書館

ってな感じで、最後は図書館で帝塚山古墳や丸山、聖天山古墳に関する文献を漁ろうという体力と知力の減退防止に有効となりそうな行程とした。 ルートはうおっ地図 on カシミールを見て、アタマの中にベクターデータ?としてインプットし揮発しないことを祈ることにした。 早い話、印刷するのが邪魔臭かっただけです。

1.難波から恵美須町

12:15発浜寺行きちんちん電車

難波パークスのクラチカでショルダーの修理上がりを受け取ってからパークス2Fを南下していくと、家電量販店があった。 以前はゴルフの打ちっぱなし場があったと記憶しているのだが、大阪球場が難波パークスに変貌した時?に家電量販店とTimesの駐車場になったのだろうか? 特に用事は無かったのだが、なんとなく入店してみたら、ちょうどデジカメ売り場があったので、衝動的にNDフィルタ(コイツを利用したROCK'N'ROLL実験?はこちらの2007/7/1)をゲットしてしまった。

そこから、南海電車の高架沿いに国道25号まで南下。壁の落書きや、歩道に堂々と駐車してる黒塗りガラスのセルシオとか、ブルーシート製移動式住居とか、 地上げしたまんま?のようなフェンスに囲まれた土地に隣接する高層(ちゅうても2007年で言うほどの高層ではない)住宅とか、 周りの雰囲気がディープ大阪風でよろしおますなぁ・・・。 25号に出たらここを左折し、スーパー玉出を尻目に殺しほんの少し東へ進むみ堺筋と交差するところが恵美須町の交差点。 近所に今宮戎神社があるので恵美須町やと思うが雰囲気はそんな風とは違うなぁ・・・。 と思いつつ今宮戎神社に後ろ髪を引かれながら、25号を南へ渡り、ほんの少し進むと右手に見えてくるのが写真の阪堺線の恵美須町駅。

2.恵美須町から帝塚山3丁目

One After 909 ならぬOn After 1203 の浜寺駅前行きで一路、帝塚山3丁目へ。

ちんちん電車に揺られること10分ほど?だろうか乗り換え駅の住吉に到着したが、帝塚山3丁目へ行くにはここで上町線の天王寺駅前行きに乗り換える必要がある。 乗り換えする場合は料金が290円になるのだが、どないするのかと言うと、降車時に290円を払って乗換券(バスの整理券と同じヤツ)を貰い、 それを乗り換えた電車を降りるときに料金箱へ入れるシステムになっているようだ。

ともかく、料金を払って乗換券を貰い、「○番線でお待ち下さい」との案内を受けて降車したが、 ○番線ちゅうてもちんちん電車の事なので・・・想像の通りである。そのホームへ行こうとするとその向こうに見えるは住吉大社?のようである。 ここはひとつ、乗り換え電車を待つあいだに住吉大社を訪問することにした。

2-1.住吉大社

正面 北口?

たぶん幼少のみぎりに亡き祖父らに連れられて初詣か何かで訪れた記憶があるような、無いような・・・ それくらい訪問するのはひさしぶりちゅうか、初めてに近いのですが、昨年から今年にかけて住吉大社に関連するちゅうか、住吉大社に関連する人物の講演を聴いたり、 関連する古墳を回ったりしていただけに丁度良い機会になった。ただ、欲を言えば、最初から訪問する予定であれば何らかの資料を持ってくる事が出来ただけにその点に関しては残念であるが・・・。

ちゅう事で、住吉大社の御祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命の4神であるが、 最後の息長足姫命は神功皇后の事で、底筒男命、中筒男命、表筒男命の3神は、神功皇后が夫の仲哀天皇と九州征伐の時に、 九州になど目を奪われずに朝鮮半島に攻め込め!と助言?を与えた神様である。 んで、これらの神様の託宣に従い、朝鮮半島に攻め入り成功を収めた神功皇后が事の成就に感謝してこれら3神を祭ったのが住吉大社の縁起になっているようである。 (夫の仲哀天皇は神の言葉を信じず、その怒りに触れて亡くなってしまったのである) 息長足姫命が御祭神となったのは、もっと後になってから(3神を祭るようになった以降という意味で時間的な経過量は表現に含まれていない)だろうと思います。

当方自身、特に調べたりした訳ではないので当ページを訪問していただいて、興味をもたれた方はご自分で調べて頂きたいと思います。
それから、ちょっと疑問なのですが息長足姫命を御祭神とする神社はおそらく各地に存在(東大阪市若江にある鏡神社も息長足姫命が祭神になぅていました)すると思うのですが、住吉大社が総本社なのでしょうか? 事の経緯から考えると、ここが総本社で他の社はここから分霊・勧請・分祀されたものだと思うのですが・・・

北口?の鳥居のところには官幣大社 住吉神社との石柱?が立っていました。延喜式に記載された式内社では最上位クラスに分類されていたようですが、 縁起を考えると当たり前でしょうなぁ・・・。それにしても神功皇后のご主人である仲哀天皇ってなんとなく不憫なイメージやな。

正面から入り、おなじみの朱塗りの太鼓橋?をわたると、拝殿がある一廓?への入り口が見えてきます。 そこに入ると4神が祭られる拝殿があり、奥から底筒男命、中筒男命、表筒男命、手前右側に息長足姫命の拝殿となっている。

2-2.帝塚山古墳

正面 北口?

ここからgeko201の登場。うぉ地図 & カシミールでトラックを記録しながら歩いている。 んで、帝塚山古墳の場所は帝塚山3丁目駅を降りたところを東へ入り、南海本線帝塚山駅を過ぎたる突き当たり、 ちょうど道路が古墳を避けるようにかぎ方に曲がっているところにある。 地理的に見ると、上町大地の西端部にあたり西側(海側)へ傾斜しはじめるあたり(傾斜変換線あるいは傾斜変換点と呼ぶのか?)に位置している。 東から古墳に向かってきて、古墳に突き当たり、北側へ折れた角から南向き(古墳の正面?)と西向きに写した写真を見ると、 僅かではあるが西向きに下りの傾斜が付いていることが解る。(道路と打ちっぱなし場フェンスの基礎部や家の塀との関係を見てください。)
また、南海本線帝塚山駅の東側から通りにそって西側(古墳側)と東側を写した写真を比べると、ほとんど傾斜が認められない。 カシミールで標高10mをピンク色に0mを白色で現した画像の色分布と良く整合していると思う。


んな訳で、古墳の立地条件?としては極ノーマルな立地であり海側から見る事を意識して築造されたのだろうと思われる。 古墳は東側面の一角のみが道路に面しているだけで、他の部分はすべて住宅に囲まれており、柵で囲まれていることもあり残念ながら中には入れなかった。 柵のところと柵の中の二箇所に案内板があり、若干内容に違いがあったが、平成13年の表記があった柵のところの案内板の内容を下記に転載しておく。

二段築成の墳丘を持つ前方後円墳で、築造当初の姿をほぼ伝える、市内唯一の古墳である。
復元される古墳の大きさは墳丘長約120m、後円部直径約57m、高さ約10m、前方部幅50m、高さ約8m(『新修大阪史』)。
幅約20〜30mの周濠の痕跡が認められるが、完周はしていなかったと推定されている。
  石室、石棺などの内部構造は不明であるが、円筒埴輪列や墳丘を覆っていた葺石が確認され、出土の埴輪片の特色から4世紀末〜5世紀初めに造営されたと考えられている。
なお、この付近には、かって大小の古墳が点在していた。
  墳丘上にある巨碑は明治31年(1898年)に行われた陸軍特別大演習を明治天皇がこおから統監されたことを記念して、住吉村が建立したものである。
平成13年4月財団法人住吉村常盤会

ちゅうことなので、明治時代にあっても見晴らしの良い場所であったことが伺われる。また、付近に大小の古墳が存在していたらしい事、 本古墳が前方後円墳である事からもこのあたりの盟主墳でもあったのだろう。 被葬者に関しては大伴金村との意見もあるようだが、年代的に100年ほどは違うので金村の墓では無いと思うが、住吉大社をも含むこのあたり一帯を支配した、一族の族長が被葬者であろう。 まぁ、後ほど訪問する阿倍野図書館で謎が解けることに期待したいと思う。

2-2-A1.茶臼山古墳

左端は通天閣です 大阪市内三大前方後円墳の位置関係

大阪市内三大前方後円墳のひとつである帝塚山古墳を訪問したのなら、残る二つもと2007/7/8に梅雨の晴れ間を利用して茶臼山古墳と御勝山古墳を訪問してみた。 帝塚山古墳との位置関係がわかるように左略図には両方のルートを表示してみました。茶臼山古墳も御勝山(おかちやま)古墳も大坂の陣で徳川の本陣が置かれたことで墳形が大きく改変されたようです。

まずは茶臼山古墳ですが、そのロケーションは帝塚山古墳と同じく上町台地の西端に位置しています。現在は天王寺公園(入園料150円)に取り込まれています。公園内でなければブルーシートの小屋だらけな事間違いなしです。

入場料を取っているくせに、茶臼山古墳に関する案内板(もちろん解説付き)などが設置されておらず、サービスが悪かったので古墳に関する内容はわかりませんが、 近くにある四天王寺に茶臼山古墳から出土したとされる長持形石棺の蓋が展示されており、本当に茶臼山古墳から出土したものであればかなり有力な地方首長の墳墓であったことが想像できるのではないでしょうか。
蓋材の材質や形状などから何時頃のものか解るかもしれませんが、残念ながら当方には・・・まだまだ勉強不足です。

2-2-A2.御勝山山古墳

道路で分断されてます。

御勝山古墳は上町台地を東へ下った平坦部にありますが、こちらの図をみると天王寺町北4丁目付近から東へ枝分かれした微高地のほぼ先端部に位置するように思えます。 画像左端に僅かに見える河川は平野川なのですが、河内湖から平野川を利用して大和川へ至る交通路を意識すると見通しの良いロケーションだったのかも知れません。 (当時の平野川の流路と今の流路が同じかどうかまで調べた訳ではないので・・・あしからず)

御勝山古墳も大阪の陣で改変を受けたと紹介しましたが、現在は前方部と後円部が幹線道路で分断されており、都会のヒエ塚古墳ちゅうところかも知れません。 んな訳で、現在では後円部だけが残り、前方部は公園になっています。現地には案内板があり1973年の発掘調査で葺石や埴輪が発見され、5世紀前半に築造された全長120m(濠を含めると150m)程度の前方後円墳であると記載されていた。 案内板にあった推定復元形状はこれです。

どうも後円部は発掘されていないようなので、ここまで破壊されてる訳やから一気に発掘したらエエと思うんやけどなぁ・・・石室の構造や石棺の種類や副葬品で茶臼山古墳との関係や、 四天王寺にある伝茶臼山古墳出土の石棺蓋について何か解るかも知れんのになぁ。

3.北畠顕家公墓所

正面

帝塚山古墳にバイバイして、元来た方向へ戻ることにした。脳内に保管したベクタデータによると、顕家公の墓所は阿倍野筋の東側にあるのだが、 昼飯を喰っていないので、メモリリフレッシュに使う電力不足気味で揮発しそうである。やはりROM化(印刷)したデータを準備するべきだったかも知れない。 そこで、コンビにでもあれば弁当を買って、万代池で腹ごしらえでも・・・と考えたのだが、阪堺線の通りに出てもそれらしきものは見つからなかった。 流石は帝塚山、高級っぽいパン屋さんはあってのコンビには無いのか?などと思いながら、やむなくスポーツドリンクで代用することにして東へと進路をとると万台池に到着した。

弁当代わりのでスポーツドリンクを飲み干した後、まっすぐ東へ抜けて阿倍野筋へ出てから、北上するか、 阿倍野筋と平行する通りを北上し、頃合をみて阿倍野筋へ出るか、考えたが、後者のルートを取ることにした。 一応geko201を取り出してコンパスを見ながら進んだつもりが、ベクタデータが揮発しかかっていたのできっちり方角を間違い迷走していた。情けないハナシである。 これなら阿倍野筋へ出るルートを選んで梅川の三菱銀行の前を通るほうが良かったかと思われた。

いずれにせよ、阿倍野筋の東側を北上しながら「行き過ぎたかなぁ・・・」と思いなが歩いていてふと右を見ると路地の突き当たりに何やら石碑のようなものが見えた。 とりあえず、立ち寄って見ると播磨塚と呼ばれる南北朝時代に建てられた、塚があった。説明版によると、住吉の戦いで楠木公に敗れた北朝方の赤松円心が戦士した多くの部下の遺骨を集め彼らの冥福を祈るために作った塚らしい。 隣に、小町塚と呼ばれる小野小町にの塚もあったが、このあたりで小野小町が死んだと言う記録も無いので、 その美貌にあやかりたいとの念願から信仰の目的のために作られたのではないかと記されていた。左が播磨塚、右か小町塚です。

播磨塚を過ぎて200mほど行くと、ありました顕家公の墓所が。
正面 北畠公園という、まんまな公園の中に墓所があり、公園の入り口や墓所のところには北畠顕家顕彰会による案内板がありました。 やっぱり南朝方の人物は人気があるのかなぁ・・・当方も尊氏や直義、高師直、佐々木道誉なんかは好きちゃうしなぁ・・・ と言いながらも新田義貞はどないやと言われると南朝方とは言えちょっとなぁ・・・やっぱり正成、正季、正行の楠木さんやろな。 北畠顕家も格好エエけど、オヤジが書いた神皇正統記が胡散臭い?のが玉にキズですな・・・などと感じるのだが、 いずれも、20年くらい前に読んだ吉川英治の太平記の記憶によるものである。
ここで、ふと思ったのですが、北畠ちゅう地名はひょっとして北畠顕家さんにちなんで付けられたのでしょうかねぇ。 それはともかく、顕彰会による案内板から抜粋転載しておきます。


(顕家公は)足利方の大将高師直の軍勢と攝津国(大阪府)で対戦、天王寺阿倍野に転戦したが、戦利あらず次第に押されて、 (奥州)出発時六万を数えた軍勢も最後には公の身辺を護る者僅か二十数騎となり志半ばにして遂に戦場の華と散られた。 時に御年二十一歳。花将軍と謳われた悲運の貴公子であった。
  公は若年ながら高邁な識見と鋭い政治批判能力を持ち、その真価は戦死の直前後醍醐天皇への「上奏文」に見事に発揮され、 その堂々とした文章と達見は後世に高く評価されている。

格好エエなぁ・・・若死にしたから高く評価されるのか、本当に優れた人物だったのか・・・。
公園内の墓所墓石。墓石には源朝臣の文字が見えるので、源さんの家系なんでしょうなぁ。当方は平が好きやねんけどなぁ。

4.ほか3点

4-1.安部晴明神社

正面 北口?

少し南にある阿倍王子神社の境外社のようである。御祭神は文字通り安部晴明なのであろう。 平安時代の陰陽師であることくらいしか当方は知らないが、それらしく占い稼業?で稼いでいるようであった。 むしろ、阿部王子神社の御祭神に誉田別尊が入っている事に興味を惹かれた。住吉大社の息長足姫命と言い、ここでの誉田別尊と言い繋がりがあるなぁ。 しかし、5世紀が水野先生風に応神天皇(誉田別尊)による大阪湾岸開発の時代であるとすれば、応神天皇本人や、母君にあたる神功皇后に関連する事物が上町台地に沿って存在することには何の不自然も無いのかも知れない。 そうそう、阿部王子神社は仁徳天皇が祭ったらしいが、これまた応神天皇の皇子で、皇位継承に関する美しい、且つ血みどろのハナシがありましたなぁ・・・。

ついでに書けば、応神王朝の最後は横恋慕の末、恋敵を惨殺するような極悪非道?な武列天皇で最後を迎えている。 んで、その後に天皇になる継体天皇は応神天皇に繋が越前の人物なのだが、越前に出る手前の滋賀県の息長こそが、応神天皇の母君である神功皇后の出身地なんですよねぇ・・・。 なんやら妄想をしていくと、変なサスペンスもんよりオモロイですなぁ・・・。

ひょっとしたら、日本書紀の編纂者ってそのあたりの才能の大いにあったのかもしれまへんな。画像は左が阿部王子神社、右が安部晴明神社。 しかし、阿部と安部ってどっちが正しいのでしょうかねぇ・・・。そもそも、磐余の阿部と同じ阿部なんでしょうか?応神天皇と一緒に仕事しに河内へ出てきたのかもしれませんな。 そうだとすれば、河内王朝なんて無い事になるのかな?

4-2.丸山古墳跡

正面 正面

実は脳内メモリを揮発させてしまい、阿倍野筋と聖天山との距離関係を忘れてしまいました。 左の画像を見れば松虫通りを西へ折れてまた阿倍野筋へ引き返しているのが解りますが、松虫塚を聖天さんと間違えた結果なのです。 本当は、そのままもう少し西へ進めばバッチリ聖天さんに行き着いたのですが、空腹のあまり?リフレッシュが追いつかず脳内メモリが完全に揮発していました。 阿倍野筋へ引き返した時点で、丸山古墳と聖天さんは諦めていたのですが、たまたま阿倍野警察の前にあった地図を見て聖天さん方面へ引き返した次第です。

んな訳なので、左の画像中、ミドリ丸で表示されているのが丸山古墳跡(左の写真が現地)なのですが、 正直、たまたま辿り着くことが出来たというのが真相です。この古墳についても何も解らないので、阿倍野図書館で調べることにしましょう。


4-3.聖天山古墳

ここはやられました。聖天山と呼ばれる小高い山状の部分の一部が公園になっており、山状部の頂上部にはお寺がありました。 どこぞに、丸山古墳跡のような石碑でもあるのかなぁ・・・と思いぐるりと一周してみましたが、何もありませんでした。 ただ、今から思えば小さな横穴式石室に用いられても不思議では無いような石がいくつか散乱していました。

この時点では漫遊記になるとは予想もしていなかったので、写真は撮らずにスゴスゴと引き上げてきました。 無いと思いますが、再度訪問する機会があったら何らかの写真を撮って来ます。それと頂上にあるお寺ですが境内が楚々として綺麗に感じられたのが印象的でした。

5.阿倍野区図書館

さて、本日の謎を解明するべしと、勇んでやってきたのですが。な、な、なんと休館日でした。
帰宅してからウェブサイトを見ると、たぶん蔵書点検日にあたったのだと思います。 しかしやなぁ、そんなもん利用者の事を考えたら平日にするのが普通やと思うんやけどなぁ・・・流石は大阪市ちゅうことやろ。

と言う訳で、謎は謎のままと相成りましたとさ。

5.最後に

今回はネタを意識して歩き回ったわけではなく、バッグの修理受け取りのついでに、E410で遊んだり、ちんちん電車に乗ったり、 わざわざ訪問するとは思い難い古墳を訪ねたり、ヒマに任せて歩き回ってみました。その割にはなかなか得るもの?も多く、 百舌鳥古墳群を訪ねるのにちんちん電車を利用するのもエエなぁと感じました。一般的?には南海本線で行くのが常道なんでしょうが、 それよりちんちん電車の方が楽しそうです。

ホンマにそんな事が発見できて楽しい一日でした。徒歩はしんどいし、行動範囲も狭くなるけど、 その分行動に融通が利くので発見できることも多いんでしょうな。


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イ.箸中山への道

去る4月1日、友史会の特別遺跡見学会で鳴門市の遺跡を巡った。
参加人数が多く(観光バス3台に分乗)スケジュールも押し気味であったため、何箇所か端折らざるを得ない見学ポイントのあったのが残念だったが、 現地に立つという事で奈良や河内の古墳との相違を感じたり、鳴門市教育委員会の方や徳島埋蔵文化財センターの方から貴重な説明を聞くことが出来た。

こちらに今回訪問した遺跡近辺の地図を用意した。 標高の色分けは相変わらずのセンスだが、凡例からも解るように地図中の薄ピンク色の部分は標高2〜3mしかなく、当時は海が広がっていたと推測される。

1.新大阪から大代古墳へ

新大阪を9:00に出発、淡路SAで休憩後、弁当の配給を受け一路大代古墳へと向かった。 車中、見学会に同行して下さった研究所の千賀先生から阿波の遺跡を見学するにあたってのポイントについて解説があったので 以下、簡単に整理しておくことにする。

1-1.墳丘墓と古墳

基準を何にするかという点でのエピソードであると理解したのだが墳墓と古墳に違いについて幾つかの見解があることを示していただいた。

  1. 古墳時代の墓だから古墳と呼ぶ。何故なら出土した土器が土師器であるから。
  2. 同様に出土した土器が弥生式土器であれば墳丘墓と呼ぶ。

という、土器編年?に基づいた考え方。
もう一点は

  1. 古墳時代に作られた墓だから古墳と呼ぶ。(なので出土した土器は土師器になるのだろうと想像している)
  2. 同様に弥生時代に作られた墓なら墳丘墓と呼ぶ。(なので出土した土器は弥生式土器になるのだろうと想像している)

と言う、なにやら解ったようなワカランような話であるが、後者を補足する(と当方は解釈したのだが)ものとして、 白石先生の箸中山のように、いきなり300m弱に及ぶような巨大な墓が作られるようになるのは時代に画期、 − いわゆる変化 − があったからである。なので、箸中山は古墳と呼ぶが、それ以前は古墳と呼ばない。という説も紹介された。

1-2.積石塚と石囲(積石)木槨のルーツ

今回訪問する萩原2号墓はホケノ山に先行するものであり、そこで採用された主体部の石囲 (石積) 木槨や墳丘の積石構造は ヤマトで採用されたものが阿波へ伝わったものではない。 それなら、このルーツはどこなのだろうか? これに近い構造のものとして、中国漢代の木槨墓や楽浪郡の役人の墓、釜山近郊金海、 良洞里(りょどうり)の木槨 (石積み構造は無かったらしい) などがあげられる。

もし、阿波の人々が鉄などを通じて弁辰と交流があった (萩原1号墳から舶載画文帯同向式神獣鏡が出土している)  と想定すればホケノ山、あるいはヤマトとの関係、ひいては邪馬台国との関連性など、どのように考えられるのだろうか?

1-3.大鳴門橋を渡って

車内で弁当を食べながら聴くには少々難しい話であったが、そうこうしているうちにバスは大鳴門橋を渡り、 イカダ釣りで有名なウチノ海の横を通り過ぎ、目的地である大代古墳に近づいてきた。

2.大代古墳へ

大体の位置は前述の地図で確認していただくとして、近辺をもう少し拡大したものを準備しました。 高松自動車道のトンネルの真上 (標高43m) にある古墳で4世紀後半の前方後円墳です。主墳の南北に主墳に隣接して円墳があり北側が2号墳、南側が3号墳となっている。

高速道路のトンネル上にある古墳 測量図

立地は非常に眺望の良い位置にあり、天気の良い日は紀伊水道から和歌山まで見渡すことが出来るようです。 また、眼下には木津と言う地名も示すとおり木材を扱っていたと思われる港があり、鳴門海峡を中心とした港湾を掌握した首長の墓であったと推測されている。 このことは、衛生センターの南側にある小山状の地形をした部分には中世の山城跡があり土佐の長宗我部の阿波侵攻や秀吉の四国侵攻の際にも 真っ先に攻撃された事からもこの地が要衝であった事を現しているとの解説があった。

この古墳は、海に面した東側と山に面した西側では作りに違いがあり、 海側からはより大きく立派に見えるような工夫がなされていたらしい。 このことは、この古墳が築造された時期になると後ほど訪れる萩原1,2号墓が築造された弥生時代後期とは違った政治システムであった事を示しているのだと解釈した。

左画像は近辺図の衛生センター付近のバスを降りたあたりから撮影したもので、古墳の東面、いわば海側から望んだものである。 葺石が施されていたかどうかは不明だが、施されていたとすれば目立つ存在であったと思う。 右は測量図である。北側の2号墳は省略されている。はっきりした段築は見られないが隆起斜道は確認できる。 墳頂から東方向の眺望(山城のあった山です)と徳島埋蔵文化財総合センターに展示されている 大代古墳から出土した香川県津田町火山(ひやま)産出の白色凝灰岩で作成された刳抜式舟形石棺の複製を載せておきます。 右の測量図からは東側と西側の違いが見て取れると思います。南北にある円墳のうち北側の2号墳は載っていません。

3.徳島県埋蔵文化財総合センター

移設された西山谷古墳石室 説明板

大代古墳から西へ直線距離で12〜13km、バスで30分くらいのところ、高松自動車道と徳島自動車道が接近した後、 分かれて行くあたりの尾根から切り離された丘陵状の南端にある。

ここでは、先ほど紹介した大代古墳から出土した刳抜式舟形石棺のレプリカや萩原1号墓から出土した舶載画文帯同向式神獣鏡などが展示されていた。 屋外には西山谷2号墳 (円墳) から移設された竪穴式石室が展示されています。埋蔵文化財センターなどの名称がつくところは祝祭日は閉館しているところが多いと思うのですが、 展示施設を併設しているからか、こちらは祝祭日も開館されていました。

画像は移設された西山谷古墳の石室とその説明板。石室の壁材に使われている青石 (結晶片岩) のサンプル画像大 (220KB) サンプル画像小 (132KB) 

4.萩原墳墓群・天河別神社古墳群・宝幢寺古墳

埋蔵文化財総合センターから大代古墳の方へバスで10分くらい戻ったところにある。 こちらの地図を見ると解るように萩原墳墓群と天河別神社古墳群 (あまのかわわけじんじゃこふんぐん) と宝幢寺古墳群 (ほうどうじこふんぐん) とは至近距離にあります。 なので、全く個人的な妄想でこれらの古墳群はひょっとしたら同じ氏族、あるいは同じ系列の氏族のものかも知れないと判断し、項目番号4で括ってみました。

何らかの形で再度、徳島県埋蔵文化財総合センターを訪問する機会があれば職員の方に質問してみたいと思います。

4-1.萩原墳墓群 (萩原2号墓)

ここの2号墳が今回の阿波訪問のメインイベントになるハズであった。当初の予定では発掘中の状態を見学できると言う風に聴いていたのだが、 予算 (もちろ徳島県の) の都合上、年度内に処理する必要があったためすべて埋め戻されていたのである。

私達が訪問したのは4月1日、埋め戻されたのは3月29日だったらしい。

3日前に埋め戻されたされた萩原2号墓

そんな訳で、非常に残念ではあったがこの画像のような状態しか見ることが出来なかった。 画像中央部の盛り上がった部分が積石塚の部分で、その下に主体部である積石木槨が存在するとの事である。 埋蔵文化財総合センターのの藤川先生の説明によると、埋め戻すときに誇張気味に埋め戻したので、実際はこれほどの盛り上がりでは無かったようなことを仰っていたが、 現説時に配布された資料を基にした私達の手元資料には「積石塚は約40〜60cm程度の厚み」と記載されているので、 画像の盛り上がり状態に近いのでは無いかと個人的には考えています。


萩原墳墓群には2号墳の他に1号墳と3,4号墳があり、1,2号墳は弥生時代、3,4号墓は時期不明との事。 築造時期が解っている、1号墓と2号墓の比較においては主体部の作りにやや違う部分が存在し、 当時の埋葬施設の作り方の変遷から判断すると1号墓の方が新しいようです。 新しいと言っても、弥生時代の終末期から古墳時代の最初に掛けての時期なので、ホケノ山の築造時期を考慮にいれてもレンジで70〜80年程度のものでは無いかと個人的には考えています。 そうすると、ホケノ山や、ホケノ山に隣接し、且つホケノ山に先行する堂の後古墳などのとの関係にますます興味が沸いてきますなぁ。


萩原1号墓に関して補足しておくと、1号墓の調査をしたときに、本体の周辺から十数個発見された小竪穴石室や箱式石棺の一部が宝幢寺の境内に移設されています。 画像は小竪穴式石室で長さは1m弱程度の大きさであったと記憶しています。 このような小さな石室を本体の周りに作っているのが1号墓の特徴であり、2号墓にも同様の特徴があったのではないかとの事でした。

箸中山まであと50年くらいかな?

4-1.天河別神社古墳群

1号墳から2号墳を見る 1号墳から4号墳方向

本項目4の初めの地図を見ると解るように、4号墳を境にして二つの尾根に分れ、南東尾根には1,2号墳、 南西尾根には3,7,8号墳があります。鳴門市教育委員会発行の現地説明会用資料を見ると、 3号墳は前方後円墳、4号墳を除く、1,2,7,8号墳は円墳と説明されていますが、3号墳と1,2号墳以外の墳形については解りにくいような気がしますが、 「この古墳群は10基以上の古墳で構成されている」との記述もあるので、墳丘が重なったりしているため測量図からでは解りにくいだけなのかも知れません。

現説資料を見る限り、1,2号墳しか発掘調査が行われていない様な感じを受けますが、築造時期は1号墳が先行し、2号墳がそれに50〜80年ほど送れて築造されたようです。 この時期差は埋葬主体の構造から判断されたようで、1号墳が木蓋で閉じられる石囲いを持つ竪穴式石室を有し、2号墳は持ち送り式の竪穴式石室を持つと考えられるためのようです。

二つの画像は共に、1号墳の墳頂から撮影したもので、左が2号墳を撮影したもの、右が4号墳の方向を撮影したものです。 当日は、ここを訪問した時点でスケジュールが大きく遅れていたため、ゆっくりと見学できなかったのが残念です。

1号墳の埋葬主体部について石囲いを持つ竪穴式石室と表現されているのだが、これってホケノ山と同じ、 あるいはそれに近い構造を持っていると言う事なのだろうか?これまた再訪問する機会があれば確認したい点である。
また、後ほど訪問した徳島考古資料館で頂いた春季特別展「前期古墳の謎」の図録には3,4号墳が柄鏡式前方後円墳と記載されていた。


4-1.宝幢寺古墳

前方部左隅角から後円部方向 測量図

現地案内板によると、築造時期は4世紀後末 (奈良、河内で言うと大王墓クラスの墳墓が佐紀、馬見、古市へと築造場所を変えて行く頃。) で、 後円部には円筒埴輪が巡らされており、墳丘に関しては自然地形がそのまま利用され、ほとんど盛土は行われていない。と記述されていた。

埋蔵文化財総合センターの藤川先生の説明によると、国史跡の指定を受けるため鳴門市教育委員会が墳形確認調査をしたところ、 墳丘規模、築造時期に多少の変更があったようで、墳丘規模は全長47m、前方部長19m、後円部径28m、築造時期は古墳時代前期後半、4世紀中ごろとの事であった。 残念ながら、後円部には歴代住職の墓があるため主体部については詳しいことは解らないようである。 簡単なものでがが編年表を載せておきます。妄想の参考にしてください。

おっと、箸中山を通り越してもたぞ!

5.矢野古墳と徳島考古資料館

ここまで訪ねてきた墳墓が吉野川の北側 (阿讃山脈から南方に伸びる尾根筋) にあるものだったのに対し、矢野古墳は南側 (気延山の尾根) にあり、 徳島市阿波史跡公園に一角となっている。今回の訪問では見学している時間が全く無く、公園内の徳島考古資料館で資料だけを頂いてきた。

毎度の事ながら、時間が無いので見学はアカンと言う幹事さんの言葉を無視して勝手に古墳へ行くクソジジイ共が居てましたが情けない限りです。

そんなわけなので、矢野古墳に関しては、友史会事務局から配布頂いた資料から引用すると、 主体部に両袖式の横穴式石室を持つ円墳で築造時期は6世紀後半〜7世紀前半 (古墳時代後期後半) 。
玄室は幅2.7m、長さ4m、最大高さ2.75mあり、玄室、前室、羨道の各長さの比率が1:1:1の企画性を持つようです。 考古資料館前から矢野古墳を望むっちゅうほどのモンではないけど、こんな雰囲気です。


6.徳島県の古墳事情

埋蔵文化財総合センターの藤川先生の話によると、徳島県内の前方後円墳のうちや約半数が鳴門から板野町 (大代古墳のあたりから埋蔵文化財総合センターのあたりにかけての地域) に存在し、 残りの半分 (全体の1/4) が、吉野川を挟んで対岸にあたる石井町や国府町、名東町周辺の地域にあるとの事です。 これらの事は吉野川を挟む二つの勢力が存在し、ライバルであったのか盟友であったのか解らないものの、阿波の一番広い場所をその勢力下に置いていたようで、 今回メインで訪問した、萩原墳墓群・天河別神社古墳群・宝幢寺古墳の地域は北側の勢力の中でも中心となる勢力であるとの事です。
地図の上 (北側) の円内が大代古墳から埋蔵文化財総合センターに掛けての地域。 三角形の屋根の神みたいなマークは北側のものが埋蔵文化財センターで、南側のものが徳島考古資料館 (矢野古墳の隣接) を現しています。


7.最後に

昨秋、二上山博物館で開催された秋季展示会、邪馬台国シンポジウム (サブタイトル:邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大和)  に関連した講演会で、四国の阿波、讃岐にホケノ山に先行するような埋葬施設を持つ墳墓が見られる事や、 箸中山の相似墳とみられるような墳丘形状を持つ前方後円墳もこれらの地方に見られると言う事を知った。 この事は、吉備の特殊器台がヤマトに持ち込まれ、円筒埴輪や朝顔形埴輪へ遷移していったのと同じように、 これらの地方から埋葬施設が持ちこまれ、それが竪穴式石室へと遷移していったのかも知れない。

現在のところ、ホケノ山に続きそうな埋葬施設を持つものがヤマトや河内では発見されていないので、 それを証明するものは無いが、どこかで発見されるかも知れないし、発見されずに終わるかも知れないし、 そもそも、そんな事実は無かったのかも知れない。

一方、ヤマトで発生した (と当方は解釈している。) 前方後円墳は箸中山のような撥形前方部を持つものも含め、 相似墳が四国地方を初め各地に見られる。この事は古墳時代における前方後円墳の持つ意味を考えた時、  (瀬戸内) 邪馬台国連合や卑弥呼とは人の名前ではなく何らかの役職名?だったのではないだろうか。との考えに結びつくのかも知れ無い。

そういう観点から今回訪問した鳴門市の古墳群を改めて見てみると、当方として萩原墳墓群と天河別神社古墳群の関係や 天河別神社古墳群の3,4号墳が非常に気になるところである。


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最終更新日:2007/05/05