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2008漫遊記

ロ.淡輪古墳巡り

ウエィポイント

せっかく予行演習で泉州古墳巡りを実施したので、黄金週間(と、言っても暦通りなんです)前半の最終日に淡輪へ行って来た。 今回はコイツで事前に情報を仕入れてあるので、運が良ければ宇土墓や西陵古墳以外にも幾つかの後期古墳を訪ねることが出来るかも知れない。 但し、1:25,000の地図上でプロットしたGPSデータなので周囲の状況によっては直ぐ横まで行っていても気づかない事も過去の経験上十分ありうる。 はてさて、どのような結末になったやら・・・。
  んで、その行程は、南海電鉄淡輪駅を起点として都度、訪問ポイントを選定しながらみさき公園駅に至るルートで、地図で見る限り駅間は2〜3kmほどの距離なのだがポイントが国道26号線を挟んで南北に分散しているため、下手したら10kmほど歩くことになるかも知れない。

1.船守神社

当日は、難波駅発8:55の区間急行に乗るとほぼ10:00頃に淡輪駅に到着。(帰りはみさき公園から難波まで63分だった)
訪問予定ポイントが国道の南北に分散しているので、どんな順番で回るかが思案のしどころである。ひとまずここは本日の幸運と無事を願って船守神社を最初の訪問ポイントに設定した。(ちゃんとお賽銭もあげました)

船守神社縁起(当神社所蔵)によると主祭神は紀船守で他には青龍権現、垂仁天皇の第二皇子、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)も祀られており、縁起によると青龍権現とは紀小弓ではないかとも記されているようです。社伝によると911年に醍醐天皇の勅命により創建されたという事らしいですが、式内社ではないのはちょっと?です。船守神社縁起が1751年(寛延4年)の年紀を持っているようなので、実際はもっと時代の下る時期の創建ではないでしょうか。


2.山田海岸遺跡

石敷製塩炉が「海岸の谷の右岸の平坦地にある」と言う記述があったので、こちら(右上の方の山田と書かれた付近の赤丸)を元に1:25,000の地図にそれらしき場所をプロットしていったのだが、猫の額程度の谷間にたどり着いただけであった。 (GPSの精度を抜きにしたら、プロットした場所は他人の家の敷地内だった。笑)おそらく谷の先の海辺の方か、北か南のどちらかの谷筋、あるいはそれらの海辺の方かも知れない。元資料のプロット精度とその読み取り精度(オノレの目と勘)の問題?ですな。
ちゅうことで、いきなり挫折しました。次へ参ります。

3.淡輪ニサンザイ古墳 − 宇土墓古墳 

駅のすぐ裏手にあるでっかい古墳です。宮内庁の陵墓参考地に指定されており垂仁天皇の第二皇子である五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の陵墓とされています。なので当然墳丘内には立ち入ることができないのでぐるっと周りを一周するだけです。墳丘規模は墳丘長170m、前方部幅120m、後円部径120m。立地は地図を見る限り南東から北西方向へ伸びる丘陵の先端部付近に傾斜線と平行に主軸を持って築造されています。よって北側と南側の周濠の間には堤が設けられていましたが、ほとんど比高は無いように思えました。
歪みまくりe410のパノラマモードで北側(海側)から撮影した墳丘の写真です。

左の写真は淡輪駅前の通りを東へ歩き、南海電車の踏み切りの手前のカーブになった部分ですが、周濠のカーブに沿った形状になっています。兆域がここまで達していたのかたまたま道路がこんな形状になっているのか気になるところですが、今回参考にした資料には、1981年の調査で「濠の外側に兆域を区画するように浅い溝が巡っていたことが解った」と記述してあり、その調査に基づいて作成された?と思われる墳丘復元図を見ると兆域はもっと小規模なので、この道路の形状はたまたまなのだと思います。ちなみに、青色の線はの道路に沿って兆域を区画してみたものですが、こうすると、陪塚もほとんどすべてがその区画内に位置することになります。こちらは踏み切りから線路脇にある陪塚を撮影した画像で、復元図では左から二つ目の円墳に相当すると思われます。後方は宇土墓。

後円部北東付近の周濠から北側に広がる農地を撮影してみました。畝が先ほどの道路のカーブと同じ様に周濠に沿った形状になっています。(今度のパノラマは」少々サイズがでかいです。約1.2MB)  先ほどの復元図と照合すると、堤から二つ目の畝辺りまでが兆域になるのかも知れません。

本当は誰のお墓なんでしょうか?出土した円筒埴輪から5世紀中ごろ(8期)の築造と推定されています。この時期の大王墓は百舌鳥の大仙か、土師ニサンザイ、ひょっとした前へ戻って市野山あたりが候補になるのかも知れません。この当たりが被葬者を推測するヒントになるんかな?

4.鴻ノ巣古墳

奥行き2m足らず、間口1mほどの小さな横穴式石室が住宅地の一区画 − 個人宅の庭先 − にあります。宇土墓へ行く前にgekoのGPSデータを頼りにすぐ近く ( 直線距離で50mほど )まで行ってたのですが、たどり着けなかった場所です。たまたま、宇土墓から西小山陵古墳へ向かう途中に案内板を見かけたので立ち寄ったのですが、この規模と立地環境ではピンポイントのgpsデータを入手しない限りたデータだけで辿り着くのは難しいと思います。当方も、住宅街の中をgekoを片手にグルグル回った結果、どこかのお宅の敷地内になっているんやろなぁ・・・と判断し、一度は断念した場所です。

今回参考にした資料によると、6世紀以降に築造された群集墳で1号墳から10号墳まであったらしいですが、5基が調査され、5基が破壊された(たぶん未調査でと言う意味だと思う)とのことですが、現存しているのは1号墳のようです。現地案内板にもありましたが、個人宅の庭先にあるので訪問の際はエチケットを守る必要があると感じました。この時も家人の方が散水しておられたので一声掛けさせていただきました。


5.西小山陵古墳

完全に削平されており、墳丘がないので資料に掲載されていた復元図を載せてみました。個人的には、造出し付き円墳と捉えるのか帆立貝形古墳と捉えるのか難しいところだと思いますが資料には造出し付き円墳となっています。1930年に行われた墳丘頂部の調査で、東西方向の礫床の竪穴式石室が発見され、石室内から金銅装眉庇付冑、三角板鋲留短甲、三角板横矧鋲留短甲、挂甲札、刀、鉾。鉄鏃などの鉄製武具や武器、滑石製勾玉が出土してるようです。棺に関する記述は見当たらなかったのですが、資料に載っていた石室と出土遺物の様子を見ると、組み合わせ式の木棺のようなものだった気がします。
円筒埴輪の編年から推定される築造時期は5世紀半ばから後半にかけてという事らしいです。当方の手持ちの副葬品による編年表?を見ても同じような時期、(8期から9期)に当てはまります。

その後、1981年にも再調査が行われ、その結果、墳頂が大きく削平をうけてほとんど存在しないこと、一段目の墳丘裾と濠は田畑の地下に埋もれていることが判明したようです。現在、墳丘の中央部だと思われるところには小さな石碑がたっていました。 ( 石碑の後方は西陵古墳です。 )


6.西陵古墳

現地案内板には「西二山在(ニシニサンザイ)古墳」と称し、紀小弓の墓であろうかと言われている。との記述があった。墳丘規模は墳丘長210m、前方部幅100m、後円部径115mの大型前方後円墳です。資料にある墳丘測量図をみると造出しの位置は反対ですが佐紀のウワナベ古墳に似ているような気がします。西陵古墳墳丘測量図ウワナベ古墳墳丘測量図。(縮尺は異なっています)
墳丘へは前方部隅角に続く堤から入ることが出来ます。二段目のテラスに沿ってロープが張ってあり、墳丘を一周することができます。いままで見たこのクラスの古墳の中では露出している葺石が一番多かったと思います。また造出しがはっきりと明瞭に残っていたのもちょっとビックリしました。というのも北西側周濠と南東側周濠の比高がかなりあり、低い側に造出しが付いていたので余計にそう感じたのかも知れません。こちらは墳丘内部から見た造出し部周濠堤から見たた造出し部(中央やや左、右の方は後円部)の写真ですが、普通は(ヘボなだけ)のっぺりとしか写らず遠近感が全く解らないのですが、そこそこ存在がわかるくらいに写っている(と思う)事からも残りの良いことが解ると思います。

二段目のテラスへ回らずに墳頂へもロープが張ってあります。墳頂も前方部斜道から隆起斜道を経て後円部墳頂へ続く様子が良く解ります。後円部の墳頂は今まで見た同クラスの古墳の中ではかなり小さく感じました。資料によると、かって長持形石棺の蓋石が露出していたこがあり・・・と記述されていますが、竪穴式石室の蓋石の間違いでは無いかと思うのですがどうなんでしょうか。もし、記述通りだとしたら、石室内から出土したであろう遺物に関する記述があってしかるべしだと思います。
築造時期は円筒埴輪から5世紀前半頃と推定されています。北西側周濠からのパノラマ写真です。

7.久保谷古墳

岬高校の下あたりかなぁ・・・と思っいたのですが、それらしいものを見つける事が出来ませんでした。それより、岬高校へ通じる道路を少し登ってこの付近一帯の写真を撮ろうと思っていたのですが、丘の下から高校の敷地になっており残念ながら入って撮影することが出来ませんでした。

8.真鍋古墳

参考にした資料には「尾根を切断して築かれた直径約40mの円墳」とあるので見つかる事を期待していたのですが、これまた、久保田に古墳同様、辿り着く事ができませんでした。プロット位置と目的地との誤差が鴻ノ巣古墳におけるそれとほぼ同等レベルだとすると、この古墳は跡形も無くなくなってしまったのかも知れません。プロットした場所は土建屋さんの土取り場?のような感じになっていました。

9.白峠山古墳

残念なことに土地所有者の意向で立ち入り禁止になっていた。史跡が個人の土地になっていることがあるんですなぁ。また立ち入りを禁止しているとは・・・余程の迷惑を蒙ったのだろうか?
んな、訳でここもパスでした。

10.みどり山古墳

みさき公園の一駅さきの深日にある古墳です。時間があったので足を伸ばしてみたのですが、残念ながらここも目的地に辿り着けませんでした。ポイント近辺までは問題なく辿りつくのですが、ポイントの大きさによっては1:5,000くらいの地図を持っていないとなかなか厳しいです。昼メシを未だ食べてなかったので、この古墳の近くにある運動公園にでも行けばベンチやトイレなども有るだろうと予想したのですが野球場があるだけで何もありませんでしたが、直ぐ裏手の山の頂上まで登れる道が付いていたので、そこで遅めの昼食を取りました。

11.磯山古墳

みさき公園まで、磯山古墳群の下の海岸沿いの道で戻る事にしました。深日漁港からゴルフ場のウラを通るコースです。途中、西陵古墳を見通せる場所があったのでパノラマを撮ってみました。わかりにくいですがほぼ中央に写っています。淡輪ニサンザイ古墳も左端の方の丘陵の手前に写っているハズです。左の写真はちょうど磯山古墳群の下を抜けたあたりから撮影したもので、古墳群はこれらの尾根にあるのだと思います。みさき公園の敷地内になっているため訪問しませんでした。資料によると展望台を建設するときにいくつかの古墳が破壊されたようです。
こちらは資料から借用した地形図です。


12.まとめ

まとめ − と言うか、入手した資料に個人的な見解(希望的観測?)を加えた妄想と表現するほうが適切かも知れないが − をちょいと書いておしまいにする。

まず、参考にした資料に記載されていた系譜に関する表を見てみる。5世紀から6世紀にかけての時期というのは大王墓が大和から河内へ移動してくる時期に重なる。 大王墓の墳丘規模はどんどん大きくなり、それ以外のものと規模を隔絶していく一方で、吉備(岡山県岡山市造山古墳、岡山県総社市作山古墳)や上毛(群馬県太田市天神山古墳)に墳丘規模200m超級の巨大前方後円墳も築かれている。 このことは4世紀の後半から5世紀初頭に大王墓がオオヤマトから佐紀へ、そして河内へと遷移していく段階における大王墓と和泉摩湯山古墳や兵庫県五色塚古墳の関係 − 言い換えれば、ヤマト政権とその勢力範囲の縁辺部に存在する地域大首長との関係 − と同様のものであると考えられないだろうか。


そういう観点から先ほどの系譜を見ると横線で繋がってはいない ( たぶん築造場所が離れているので墓域が違うと言う判断なのかも知れない。 全く墓域を判断すると言うのは整合性と言う点難しいものである ) が、その規模から見て西陵古墳、淡輪ニザンザイは地域の大首長の墓であることは明らかであり、 その点において同一系譜 ( 系譜というのも良く解らない。血による繋がりなのか、習俗なのか・・・ ) と見ても良いと思われる。 ただ、問題なのは墓域の違いという事になるのだろうが、これらの古墳から出土した円筒埴輪に見られる製作技法(淡輪技法)が共通しており、 その技法が紀ノ川北岸のものと共通性があることから、これらの古墳の被葬者は本拠地を紀ノ川北岸に持つ地域大首長で、勢力範囲の北限付近に築造したのだろうと推察でき、 この事 ( 巨大前方後円墳の築造 ) は、前述の前提に立つと、この地域大首長がヤマト政権に与した事を表明するものだと理解することが出来ると思う。


以上の事から、これらの古墳の被葬者に紀氏にゆかりのある人物が推定されているのもうなずけると言う次第である。 また、「話し」としてであるが、紀氏は葛城氏と同じく武内宿禰を祖先に持つとされていることから5世紀半ば以降、淡輪ニサンザイに続く古墳が築造されておらず、 6世紀半ば以降に築造される白峠山、真鍋山の系譜がその系譜を受け継ぐものだとすれば、雄略天皇が葛城氏を排斥?したとされる記述や、 雄略天皇を含む応神朝が武列で途絶え、北陸から迎えられた継体天皇の陵墓であるとされる今城塚の築造が6世紀半ば頃であったりすることも、傍証であると考えるのは妄想を膨らませすぎなんだろうか。 ( 日本書紀編纂者も同じやったりして。爆 )


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イ.泉州古墳巡り

先日、講演会などで入手した資料の整理をしていると、掃除中や整理中に良くあるパターンで整理を忘れ、いつのまにか資料を読み耽っていた。 かっこよく言うと、同じ資料から新たな興味や疑問を感じることが出来るというのは、資料を手に入れた当時から比べると多少なりとも知識が増えたと言う事だろう。 そんな資料の中に、ヤマト政権の河内進出に触れたものが有り、泉州の幾つかの古墳が記載されていた。 以前から岬町にある淡輪にさんざい古墳、西陵古墳を訪問してみたいなぁと思っていたので、その前哨戦として和泉、岸和田にある幾つかの古墳を訪ねて見ることにした。

1.JR富木からJR信太山まで

JR富木からJR信太山

JR富木をスタートし、和泉黄金塚、丸笠山を経てJR信太山に至るルート。 まぁ午前中で回れたらエエなぁというところ。Gekoのトラックを見るとJR富木発 9;19、JR信太山到着が 11:23、歩行距離 8.82Kmとなっていた。 地図上でトラックに沿って大雑把ではあるがプロットしていくと距離は6.3Kmくらいになるのでまぁ妥当な数値が出ていると思う。

左の画像がルートの全容で、標高10m単位で色分けしている。丘陵部の北側縁辺にアイコンのあるあたりが和泉黄金塚古墳、 西縁辺にあるのが丸笠山である。


1-1.和泉黄金塚古墳

北北西から撮影(鳳高校のウラの道)

景初三年銘を持つ画文帯四神四獣鏡が出土したことで有名になった古墳である。太平洋戦争中は高射砲陣地として利用され、 戦後、塹壕内で短甲の一部が発見されたことにより昭和25年に末永雅雄先生らの手で発掘調査されることになったようである。

ロケーションは信太山丘陵の北端も北端、まさに端っこちゅうところである。 前述の調査結果によると墳丘規模全長97m、後円部径60m、同高さ9m、前方部端推定幅42m、同高さ6.5m。 後円部は三段築製、前方部は二段築製。一段目が地山、それより上は盛り土となっていた。築造時期は4世紀後半と推定されている。 和泉市発行の調査報告書から借用した航空写真をみると全体像が良くわかると思う。 当方が現地で撮影した左の写真は航空写真で言うと、手前の方向200mくらいのところから撮影したもので左が後円部になっている。 こちらの写真は前方部右上の延長線上にあるY字状になった畝から撮影したものです。

埋葬施設は三基の粘土槨を有し、東西槨は組合せ式木棺、中央槨はコウヤマキ製刳抜式木棺だったようである。 記録では三角縁神獣鏡の出土を確認できなかったが、画文帯四神四獣鏡が中央槨の棺外から出土している点が柳本の黒塚古墳と違い興味深いと感じた。 他の出土物として中国晋代の五朱銭や大型水晶製品(桜井茶臼山から出てきた碧玉製玉杖頭に酷似)も出土している。 被葬者に関しては、中央槨が司祭的性格を持つ人物、西槨に関しては武人的性格を持つ人物、東槨にかんしては両方の正確を持つ人物ではないかと記載している資料もあった。 ちなみに。末永先生は先の資料の中で、中央槨の被葬者について、四世紀前半、わが国でかなり高貴な社会的地位をもった女性ではないかと推測されていた。

墳丘形状に関して別の資料をみるとは佐紀陵山と同じタイプに分類しているものもあり、築造時期も大王クラスの古墳の築造がオオヤマトから佐紀盾列の西群に移っていった時期と一致する。 おそらく黄金塚古墳の被葬者は佐紀盾列の西群を築いた大王となんらかの繋がりを持った人物ではないだろうか。


墳丘外周を回れる範囲で歩いてみたところ、柵が設けられ、発掘中なので立ち入り禁止との看板が出ていたが(平成の発掘調査は3年ほど前に終了しているハズ)、 どう見ても発掘中の雰囲気ではなかった。墳丘内に入れないことも無かったが、背丈以上もある竹?や雑草、低木を掻き分けて入る気にもなれず、 立ち入り禁止ともなっているのであっさり引き下がる事にした。ところどころ地山または盛土が露出している部分があり、 恐らく葺石ではないかと思われる石列を確認することが出来た。

1-2.丸笠山古墳

丸笠山古墳、鳥居の奥に古墳が・・・

信太山丘陵の西縁辺、信太千塚と称する古墳群の一番北端に位置しており信太千塚61号墳となっているが、 年代系譜とも信太千塚とは異なるもののようである。
立地は現地案内板にもあるように東南から北西に伸びる丘陵を利用して築造されており、 後円部を北東に、前方部を南西に向けていると思われる。周囲にため池があるが周濠の名残なのか、無関係なのかは不明との事である。(墳丘測量図) 築造時期は4世紀末頃と記載されていた。手持ちの編年表(講演会の資料にある大阪の主要古墳編年図 天野末喜氏)にも同時期と記載されている。

現地案内板には“もと式内社丸笠神社の境内地で、前方部に拝所を設け、本殿を設けず直接古墳を祀る、 古代の祭祀形式をとっていたと考えられている。”との記述があるが、これが何時頃のハナシなのだろうか? これに続いて“過去に埴輪が出土したと伝えられる以外は詳細不明であり、前方部も削平されているが、 本市域では上代町の黄金塚古墳に前後して築造された前期古墳として貴重である”と記載されているに過ぎなかった。

推定墳丘規模は墳丘長80m、後円部径50m、前方部幅37m、後円部高さ6m、二段築成との事である。

現状は管理されていない公園状態のようで、アチコチにゴミが散乱しており、 言葉は悪いがホームレスの方がブルーシートを張って生活していた公園のような雰囲気があった。 後円部の墳頂であったと思われるところはこんな惨状になっていた。(ゴミ箱のあるところがなんともミスマッチ) 案内板にあるように、前方部の削平も見事で、ほとんどお参りする人も無いと思われるような拝所?があった。 (画像の右手に後円部がある)
ロケーションは丘陵の目立つ位置にあり、200から300mほどJR信太山駅へ下ったところから西方を見るとこんな感じだった。 築造当時は立派なランドマークとして機能していたのではないだろうか。

1-3.おおっ!エエ時間ですやん

テクテク歩いてJR信太山駅に着くと11:20頃でした。ここから二つ先のJR久米田駅まで移動してから泉北高速鉄道和泉中央まで後半を歩きます。 ボヤーツと電車の到着を待っている間に関空特急のはるかが通過したので写真を撮って見ました。はるかの写真

2.JR久米田駅から泉北高速鉄道和泉中央まで

JR久米田駅から泉北高速鉄道和泉中央

JR久米田駅から貝吹山古墳、摩湯山古墳と経て和泉中央にいたる経路。距離は約8.3kmだった。 久米田到着が正午前だったので、駅前のコンビニで弁当をゲット。久米田公園(芝生があってサクラが咲いていて・・・と想像したのだが)で休憩をとることにして、 最初の目的地貝吹山古墳を目指した。その最初の目的地の貝吹山古墳であるが、後で資料を見て解ったのだが、このあたり一体は久米田古墳群と呼ばれており、 すでに消滅した古墳も含めて12基程の古墳が有ったようで、調査記録のあるものに関しては4世紀後半から6世紀頃にかけて築造されたらしい。 今回も毎度の事前調査不足で久米田公園内の貝吹山古墳、無明塚古墳、風吹山古墳しか見物できなかった。 これら古墳の配置図はココです。

2-1.貝吹山古墳

貝吹山古墳後円部

JR久米田駅からメインストリートを道なりにまっすぐ歩いて行くと右手に造成地にあるような土山が見えてくる。 手前に周濠のような池(山田池と称するらしい)もあるので、ははぁん!と直ぐに察しがつく。 案内板でもないかと回りを一瞥してみたが、道路から墳丘の方へ続いている周濠の渡堤の名残のようなところに「史跡諸兄塚」 と読めるか読めないかの境目のような状態で書かれた塔婆のような木の棒が立っていただけであった。

墳丘の回りをぐるりと一周してみたが、ただの土山という感じで後円部の墳頂には三角点が設けられていた。 道路沿いの周濠(山田池)には大きなコイが泳いでいたが、釣り人が居たのは別の周濠(どじょう池)だった。

墳丘規模は墳丘長 135m 後円部径 82m 同高さ 9m 前方部幅 64m で、 後円部は三段築成になっており、以前は露出した埴輪列を見ることができたらしい。 昭和5年に梅原末治氏らによって行われた調査によると、前方部から粘土槨状の遺構が発見されたらしい。 近年の公園整備に伴い立命館大学の和晴吾先生の指導の下、後円部の埋葬施設の調査が行われた結果、 主体部はほとんど破壊され、副葬品も持ち出されていたが、竪穴式石槨に刳抜式石棺(破片から推定)を持っていたと推定されている。 おそらくその時に作成されたと思われる墳丘の測量図。 築造時期は4世紀後半(久米田古墳群の中で最小に築造された古墳)とされているが、鏡の類が出土したとの記録がないのは盗掘で全て持ち出されたのだろうか。 言い伝えでは橘諸兄の墓であるとの事(なので史跡諸兄塚)だが、実際は全然違うかったという事である。

2-2.無明塚古墳と持ノ木古墳

無明塚古墳

貝吹山古墳の南東側100mほどのところに復元された円墳があった。二段築成の円墳で、直径 26m で7.5mの堀を持っていたらしい。 テラス部には画像のように円筒埴輪と朝顔形埴輪が並んでいるが、発掘された埴輪は上部が破壊されており、円筒か朝顔形かの区別はついていないらしい。 (余談だが、公園内のトイレは家型埴輪のようであったが、形象埴輪は発見されていないとの事) 築造時期は5世紀初頭から前半と推定されているようです。


今は埋め戻されているが(記憶では気づかなかった)、無明塚古墳の東隣に持ノ木古墳と名づけられた方形の堀跡が見つかっているらしい。 一辺13mで堀の幅は1.5〜2m、埴輪のほかに珍しい形をした須恵器が発見され、胎土分析の結果、陶邑のものと産地不明のものが有ることが判明し、 朝鮮半島から伝来した陶質土器が含まれていたと考えられている。築造時期は5世紀前半頃らしい。

2-3.風吹山古墳と女郎塚古墳

風吹山古墳

無明塚古墳の直ぐ南東側に帆立貝形の古墳がある。造出し付き円墳として築造されたものが、 帆立貝形に改造された珍しい例らしい。被葬者の地位が築造中に昇進したのではないかと見る人も居るらしいが、 個人的にはこの案に一票を投じたいと思う。 墳丘規模は墳丘長71m 後円部径59m 同高さ7m  前方部幅30m 同高さ15m 造出し幅17m 同長さ10m。墳丘は三段築成で一段目のテラスから埴輪列が見つかっているらしい。 埴輪列の中に、用途不明の柱穴が等間隔で見つかっているとのことだが、鳥形木製品でも立てたのだろうか? 墳頂には二つの埋葬施設があり、北側の施設は組み合わせ式の木棺を土坑内に設置(直葬?)したもので、同一木棺内に被葬者二体を同時に埋葬したものと推定されている。 南側は粘土槨に割り竹形木棺を設置していたようである。 北側の組み合わせ式石棺からは画文帯神獣鏡が見つかっている。他の副葬品としては刀、冑、短甲、翡翠、碧玉などが出土しているようです。 北槨と南槨の埋葬時期については同時ではないもののそれほど離れてもおらず、どちらかといえば南棺が北棺に先行すると推定されている。 出土した円筒埴輪の大半に黒班が見られること、南槨の棺外から出土した三角板革綴衝角付冑と長方板革綴短甲などから築造時期は5世紀初頭と考えられているようです。


風吹山古墳の墳頂から周りを見回すと南側の道路(牛滝街道と呼ばれる街道らしい)を隔てた学校の敷地内にも古墳のようなものが見られた。 これが女郎塚古墳で、昭和30年頃に防火用水建設のため一部削り取られる事件があったりしたらしい。

2-4.摩湯山古墳

摩湯山古墳 案内板の測量図

久米田古墳群から2kmくらい東にある丘陵の先端部に位置している。墳丘規模は全長200m 後円部径127m 高さ21m 前方部幅100m 高さ15m  で前方部、後円部ともに三段築成、括れ部付近二箇所に造出し状の隆起を持っており、泉州最大の前期古墳である。 各段には埴輪列が巡らされており円筒埴輪、鰭付円筒埴輪、朝顔方埴輪、家形埴輪などが見つかっている。 築造時期は4世紀後半と推定されている。

上左の画像は古墳から200mほど離れた池のほとりから撮影したのだが、 周濠の前方部西側のコーナーから撮影した画像を見ると、 左端のほうにブルーシートが見える。上右の測量図でいうと、後円部の南西あたになる。(別角度から) ひょっとしたら、陪塚か何かの発掘作業中なのか?と思い足を運んでみたら、やっぱりそのようで、 葺石?のようなものが検出されていた。

資料を見ると、馬子塚古墳という陪塚のようで、 昭和33年に長池の改修工事に伴う土砂採取で二段築成の墳丘上段部と埋葬施設が破壊されたが、 工事中に形象埴輪や半三角縁二神二獣鏡などが出土したようだ。という事は現在発掘している?のは墳丘の下段部分の調査なのだろうか。

石部正志氏は著書の中で、摩湯山古墳に関して次のような事を述べておられる。(と解釈したのだが・・・)


4世紀後半としては佐紀陵山(207m)に次ぐ規模を持っており、同時期に河内や大和では同規模の前方後円墳は他に存在しない。 このことは墳丘規模が政権内での立場を具現化しているとする前方後円墳体制を前提にすると、和泉の地域がヤマト政権に組み込まれていない、 すなわち、ヤマト政権の勢力範囲外にあったことを意味する。しかし、このような大規模な前方後円墳を築いているという事自体が反対に ヤマト政権に属するようになった事をも意味している。 摩湯山古墳築造は、和泉地方の大首長となった摩湯山古墳の被葬者が拡大膨張するヤマト政権と大阪湾を挟んだ四国や播磨、吉備、 紀伊の勢力との狭間で下した決断の結果であろう。と。


個人的には、摩湯山古墳に続くと思われる規模の古墳がが周囲に見られないのが不思議に感じている。 墳丘長20m程度の小規模なものを入れると、いくつかは存在するようだが、摩湯山古墳の被葬者の系譜であるとすれば、 どう考えたら良いのだろうか。

3.最後に

今回訪問した古墳はほとんどが4世紀後半の築造と推定されているものばかりである。 4世紀後半といえば、大王クラスの古墳の築造がオオヤマトから佐紀に移る頃であるが、時をほぼ同じくして、 藤井寺にも津堂城山と言う墳丘規模は208m(たまたまかどうか墳丘規模としては摩湯山などとほぼ同規模)とそれほど大きくないが、 盾形の周濠や周庭帯を持つ、以降の標準スタイルとなるような古墳が築造されている。

研究者の中には津堂城山古墳こそが、河内に築かれた最初の大王墓であり、 仲哀天皇が被葬者ではないかと推測している方も居る。

5世紀になると、古市と百舌鳥に交互に大王墓が築かれるようになり、 倭国は百済の要請を受けて朝鮮半島へ出兵することになる。 そのヘンのことを考えると、4世紀末に大王墓の墓域がオオヤマトから佐紀へ移り、程なく河内へ移って行くこと、 今回訪問した古墳や、岬町にある200m級の二つの古墳、 摩湯山古墳の項で紹介した兵庫県五色塚、京都府網野銚子山が海岸線近くに存在すること。 また、黄金塚や摩湯山や兵庫県五色塚、京都府網野銚子山などが佐紀陵山の相似墳であること、 あるいは相似墳であるとすると、ヤマト政権の活動が「海」をキーワードにした時代へ移っていく初期段階であったのかも知れない。

そのような大きな「流れ」を想定するとき、同じ時期に突然出現した200m級の摩湯山古墳と、 それに次ぐ規模の黄金塚や貝吹山が存在する和泉地域の政治的意味や摩湯山古墳被葬者とヤマト政権との関係、 摩湯山古墳被葬者と黄金塚古墳被葬者や摩湯山古墳被葬者と貝吹山古墳被葬者、はたまた黄金塚古墳被葬者と貝吹山古墳被葬者の関係などなど、 古墳時代の社会構造を考えるのに良い対象となるのかも知れない。

4.オマケ

今回訪問した古墳にはそのほとんどに案内板などが無く、資料入手に手抜きが出来ませんでした。 よって資料探しをせざるを得なかったのですが、その結果、幸か不幸か、和泉市丘陵内遺跡調査会(1992)発行の「和泉丘陵の古墳」に、 この地域の古墳時代について概観した資料を見つけたのでその一部を改変引用しておきます。
岸和田市側にも資料があったので、またの機会にでも紹介したいと思います。


和泉黄金塚古墳出現の背景は、前代の隣接する地域である大津川の左岸に突如として出現した 中央の政権とも比肩しうる墳丘長200mを誇る摩湯山古墳の築造や、次代の大王墓と目される百舌鳥古墳群の成立背景とは 全くことなる次元のものであり、あくまで本市(和泉市)北部域の平野部にその基盤を持つ在地首長として出現したものであったと考えられる。 更に、信太山台地の北西端に和泉黄金塚古墳と相前後する時期に墳丘長96mを誇る前方後円墳である丸笠山古墳が築かれ、 ここに本市北部域を中心とした二系統の在地首長の古墳系譜が誕生するのである。

これらの古墳は和泉黄金塚古墳に続く系譜が平野部へ向かい展開するのに対し、丸笠山古墳に続く系譜は信太山台地西麓を南下する。 二系統の首長系譜は各々の設定した墓域を厳然と区別していたことが窺われるが、一見一世代一墳と考えられる古墳の築造も、 和泉黄金塚古墳と信太貝吹山古墳、鍋塚古墳と玉塚古墳、或いは玉塚古墳と信太狐塚古墳の間には時間的な隔たりが見ろめられ、 対内的には厳然と二系統を維持しながらも、相互に補完関係を有することにより対外的にはひとつの首長系譜を形作っていたと指摘されている。

両者のあり方に注目するならば、二系統の古墳群はほとんどその規模を同じくして、 お互いに他を侵すことなく後期に至るまでその系統を存続させている。 両者とも古墳群のの消長には共通点が見出せ、その出現段階において墳丘全長100mをやや下回る程度の前方後円墳を築造しながらも 次第に規模を縮小し、遂には墳丘全長100mを超える大型古墳を築くことなく終わる。 しかも第二世代からは墳形も帆立貝形となり、そこには中規模な在地勢力として安定した支配を行いながらも、 結局は本市北部域の平野部のみを支配することに終始した在地首長という枠を脱することの出来なかった古墳被葬者のイメージを窺うことが出来る。

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最終更新日:2008/04/06