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2009漫遊記

イ.中部九州セコセコ巡り

高速道路1,000円乗り放題とシルバーウィークなるものを利用して知人と熊本、宮崎方面へ出かけた。当初の目論見では西都原も訪問する計画だったのだが、諸般の事情により今回は見送りとなった。ってな事で今回の予定と言うか、工程は以下の通りとなった。

1.出発進行

今回の連休がシルバーウィークと呼ばれている事など全く知らなかったし、それほど道路も渋滞するなどと想像していなかったのはまさに大失敗であった。大阪を10:00頃に出発したら、途中でゆっくり休憩しながらでも翌朝5:00頃には目的地近辺のサービスに着いて、仮眠できるだろうとたかを括っていたのだが、パーキングやサービスの混雑で駐車スペースを探すのが大変だったの事もあり、途中ではほとんど休憩すること無く、目的地近くの九州道基山サービスに着いたのは6:00頃だったと思う。ようやくここで休憩を取り、簡単に朝食を済ませた。

案内所で基山サービスから八女までの所要時間を聞くと40分ほどとの事だったので、9時頃まで仮眠することにしたが、8時頃に目が醒めたので少し早めかと思ったがそのまま出発した。

2.岩戸山古墳

予定通り8:30頃、現地に着いたので、岩戸山歴史資料館が開館するまであたりを散策した。岩戸山古墳周辺は公園として整備されていて、ジョギングや散歩をされている近所の方も数人見かけた。

2-1.概要

現地案内板によると、岩戸山古墳は、墳丘長135m、後円部径60m、同高さ18m、前方部幅92m、同高さ17mの規模を持つ九州最大級の前方後円墳で、後円部の東北側に周庭帯に続く形で一辺43mの方形の別区と呼ばれる施設が存在している。墳丘は二段築成で、内部施設は未発掘の為不明らしい。資料館で入手した資料に墳丘の測量図があったので、利用させてもらった。赤丸が石人列、青丸が円筒埴輪列、緑丸が形象埴輪が出土した場所らしい。

この古墳は筑紫の君磐井の墓とされており墳丘からは阿蘇凝灰岩で造られた多数の石製品が円筒埴輪とともに出土しており、石製品は埴輪の土を石に代え、実物大を基本としているところに特長があるらしい。訪問時に葺石の存在を確認するのを忘れたので、帰宅後電話で確認したところ現時点では葺石は発見されていないらしい。八女古墳群に見られるほかの古墳についても葺石の存在を確認したところ、嘱託の職員なので詳しいことは解らないため、市教育委員会に確認して欲しいとの事だった。学芸員は常駐していないのね・・・。

2-2.立地

八女市のこのあたりは東から西へ延びる7約kmの細長い比高20mほど ( 岩戸山古墳付近 ) の尾根状?の丘陵地帯に300近い古墳が密集しており、八女古墳群と呼ばれており筑紫の君一族の奥津城とされている。岩戸山古墳はほぼその中央部、国道3号線の西側に位置しており、国道を挟んだ直ぐ東側には墳丘長70mの前方後円墳の乗場古墳がある。

また、これらの古墳以外にも岩戸山古墳の東側 ( 山側 ) には善蔵塚古墳、丸山塚古墳、茶臼塚古墳などが存在し、全域で12の前方後円墳が存在するらしい。

2-3.系譜

上でも触れたが、八女古墳群のうち岩戸山古墳を中心とする大型の前方後円墳は磐井一族の墓と思われる。時期的には岩戸山古墳が6世紀前半の530年頃、その後、善蔵塚古墳、乗場古墳や鶴見古墳が築造されているらしい。

岩戸山古墳より前の時期となると、5世紀中ごろに広川町に石人山古墳が最初の前方後円墳として築造され、初期の横穴式石室 ( 竪穴系横口式石室? ) に横口式家型石棺が入っており、その棺蓋には直弧文が浮き彫りにされているようだ。石人山古墳に続いては神奈無田古墳が続き、5世紀後半に一時系譜が途絶え、その後岩戸山が出現するようである。カシミールを利用して主要な前方後円墳をプロットしてみた。

2-4.畿内では

岩戸山古墳が築造された頃、畿内では古墳時代も終盤を迎え、巨大前方後円墳は徐々に作られなくなってくる。継体陵とされている大阪府高槻市の今城塚古墳、彼の妃である手白香皇女の陵とされる奈良県天理市萱生にある西山塚古墳。同、杣之内地区にある東、西乗鞍古墳。少し下って6世紀半ばから後半になると、河内大塚山や見瀬丸山古墳などがあるに過ぎない。

3.肥後古代の森

岩戸山歴史資料館で、装飾古墳の内部を見学できると言う話を聞いたので、訪問順序を変更して最初に山鹿市立博物館を訪ねる事にした。岩戸山からは小一時間くらいだっただろうか。高速でも国道でもそれほど所用時間に差が無いとの事だったので国道3号線を利用した。こちらもナビで電話番号検索すると一発で目的地へ連れて行ってくれた。11:30頃に現地へ着くと、早速、装飾古墳の見学について訊ねると見学時間が14:00からとの事だったので、後のスケジュールを考えて熊本県立装飾古墳館を先に訪ねることにした。


3-1.鹿央地区-熊本県立装飾古墳館

熊本県は菊池川流域に分布する古代遺跡群を保存し活用するために山鹿地区、鹿央地区、菊水地区の3ブロックに分け肥後古代の森として整備しているらしい。熊本県立装飾古墳館はその中核となる施設と言う事なのだが、一目見て近つ飛鳥博物館に似ているなぁと思う外観は、やっぱり安藤忠雄氏のデザインによるものだった。デザインとしては斬新だと思うが、入り口がどこにあるのか分かり難いのはなんとかして欲しいものである。画像は装飾古墳館の屋上から岩原古墳群を眺めたところ。一番左端に見えるのが全長107mの岩原双子塚古墳と思われる。

装飾古墳と聞くと造山古墳の近くにある千足古墳や、玉手山の安福寺境内にある直弧文が描かれた船形石棺しか思い浮かばないくらい、近畿に住む当方にとってはなじみが薄いものである。そんなことやチブサン古墳見学が後に迫っていたのと、いつもは食事の有無や時間に拘らない知人がそれを気にしていた事などもあって、ほとんど素通りに近い状態で装飾古墳館を後にした。

3-2.山鹿地区-オブサン・チブサン古墳

山鹿市立博物館へ戻る途中で食事を済ませ、博物館へ着いたら14:00の見学までに少し時間があったので、先にオブサン古墳を訪問し、14:00にチブサン古墳で待ち合わせすることにした。この辺りもそれなりに整備されており、県内他所から移設された遺物なども展示されていました。またレンタサイクルや宿泊施設などもあるようです。

3-2-1.オブサン古墳

オブサン古墳

博物館で貰った資料によるとオブサン古墳は直径22m、高さ5mの円墳で造り出し状の長さ5.5mの突堤が横穴式石室の前庭部に存在しており、周濠は存在するものの葺石や埴輪は存在せず、築造は6世紀後半とされています。名前のオブサンは「産さん」によるらものしく安産の神様として信仰の対象になっていたようで、過去に石室は農作物の貯蔵庫として利用された形跡もあるとの事でした。

またオブサン古墳の直ぐ脇に半地下式の展示施設があるのですが、そこに展示されている羨道の外側の閉塞石には西南戦争でついた弾痕をあちこちに見ることが出来ました。

3-2-2.チブサン古墳

チブサン古墳

こちらは6世紀半ばに築造された前方後円墳で後円部径23m、墳丘長は55m以上と想定され、周濠、葺石、埴輪のいずれもが検出されており、括れ部には岩戸山古墳同様、石人が立っていたらしい。主体部は肥後型と呼ばれるドーム状に壁を積み上げたもので、組み合わせ式の家型石棺が安置されていました。残念ながら内部は撮影禁止だったのでパンフレットから構造を示した部分を転載しておきます。

この古墳も江戸時代から開口部が露出しており、副葬品などと共に組み合わせ式家型石棺の一部も盗掘の被害にあっています。名前のチブサンはオブサンと同じく乳房に由来するようで、「乳の神様」として信仰されてきたようです。

チブサン、オブサン古墳が築造された時期は畿内で言うと河内大塚山や見瀬丸山古墳と言う最後の巨大前方後円墳が築造された時期である。見瀬丸山古墳の被葬者は欽明天皇ではないかとされており、彼の時代に仏教が伝来したこと、欽明天皇こそが傍系である継体天皇と雄略天皇の流れを引く手白香皇女との間に出来た皇子であること、また欽明天皇の妃が蘇我氏出身の堅塩媛であることなどと合わせて考えると、日本 ( どこまでが日本なのか定義が難しいが ) 的には大きな時代の転換期だったと言えるのではないだろうか。ちなみに欽明天皇は現天皇家の祖でもある。


3-3.菊水地区-江田船山古墳

この古墳の周囲も公園として綺麗に整備されている。直ぐ脇にある虚空蔵古墳の墳丘では子供が芝スキーで遊んでいた。雄略天皇に比定されているワカタケル大王に典曹人として仕えた事を記す銀象嵌の鉄剣をはじめ数多くの武具、装飾品などが出土した事で有名な古墳です。

3-3-1.概要

非常に有名な古墳だけに公園内にある資料館には期待していたのですが、職員の姿は見えず、半ば放置状態だったのにはがっかりしました。この不景気で役所は大変なんでしょう。

案内板によると墳丘規模は後円部径が約41m、同高さ不明、前方部幅40m、同高さ7.5mをはかり、盾形の周濠を持つ三段築成の前方後円墳で、築造時期は5世紀後半とされています。内部施設は括れ部の付け根付近にほぼ東西方向に横穴式石室が設けられており、内部には横口式家型石棺が安置されています。こちらも内部がガラス越しに見学できるようになっていましたが、特に申し込みが必要な訳でもなく、撮影禁止でもありませんでした。かなりマズイ写真ですが雰囲気だけです。

3-3-2.立地

南へ流れる菊池川と西へ流れる江田川が合流する辺りに築造されています。現地案内板によると、この辺りは清原 ( せいばる ) 台地と呼ばれる低丘陵地との事です。

3-3-3.系譜

この項目に関する内容を色々と資料館で調べたかったのだが・・・。話が聞けなかったのは残念だった。ただ、資料館に置いてあったパンフレットを見ると、塚坊主古墳と虚空蔵塚古墳が6世紀初頭に、また何処にあるかは明記されていないが江田穴観音古墳は6世紀末に築造されたような記述が見える。これらの事を考えるとこの辺り一帯が江田船山古墳に埋葬された人物の一族の奥津城なのかも知れない。


3-3-4.畿内との関係

古市古墳群にある市野山古墳 ( 允恭天皇陵 ) の陪冢である長持山古墳から阿蘇ピンク石製の舟形石棺が出土している。また副葬品としても伽耶など南部朝鮮に見られる馬具や装飾品なども出土している。江田船山古墳の被葬者が允恭天皇の二代後の雄略天皇に使えた事から考えると、大王家やそれに近い氏族にはこの地域の豪族と関係を持ち、そのルートを利用して国内はもとより朝鮮半島と繋がっていた人物が居たのかも知れない。

また、江田船山古墳に続くとされる古墳が築造された時期には最初に訪問した岩戸山古墳の被葬者である磐井が反乱を起こしている。この古墳に葬られた人物の子孫はその反乱に参加したのだろうか。そして、参戦したとしたらどちらの側についたのだろうか。


3-3-5.再び立地と系譜

この項で取り上げるには不適切かもしれないが、ちょっと気になったので、山鹿、鹿央、菊水の三地区の位置関係をカシミールを使ってプロットして見た。それに加えて、各地域に見られる主要古墳の築造時期も合わせて記入してみた。これを見るとチブサン古墳は岩野川が菊池川に合流するやや上流側辺りに、江田船山古墳は江田川が菊池川に合流する辺りに位置し、墳丘長107mの岩原双子塚を擁する岩原古墳群は菊池川そのものを見下ろすかの様に米野山から尾根状に派生した丘陵上?に存在している。これら三つの地域は一辺7km四方あまりに収まるのだが、一つの墓域と見るのか、三つの墓域と見るのか・・・難しいところである。

特に岩原古墳群はほとんど調査が行われて居らず、築造時期も5〜6世紀頃と言うくらいしか解らないらしいし、周囲の古墳群との関係についても定説らしきものは無いらしいが、岩原双子塚古墳をこの地域の盟主墳として捉える考えが存在することも事実らしい。まさに考古学の醍醐味である。

4.熊本城

今回一緒した知人と超セコセコ旅行で以前にも訪問したことがあるが、そのときは入場時間を過ぎていて見学できなかった。なので、今回はそのときのリベンジにもなる訳である。笑
ホテルを出て、二の丸の駐車場に着いたのは午前9:00前だったと思うが、すでに多くの観光客の方があちこちに見えた。公園のベンチで昨晩ディスカウントスーパーで購入したパンで朝食をとってから500円の入場券を購入し、いざ城内へ。

最初に見学したのが小西行長の居城であった天草城の天守を移設したものでは無いかと言われた宇土櫓。現在では修復作業の結果、独自に建築されたもであることが解っているらしい。何でも建材に違う尺度の材料が用いられている事が判明したと言う様な事が書いてあったと記憶しているのだが、建築以来、一回以上の改築や修理などが行われたのだろう。それにしても尺度が違うというのもスケールが大きいというか、時代が安定していなかったと言うのか・・・。古墳築造にも出てくネタだけに興味深く感じた。また、城壁の石垣を積む角度にも時代による違いがあるとの事である。 ( 確か、最初は角度が緩くて、だんだん急傾斜になって行く積み方を武者返しなどと聞いた事があるが・・・ ) 

次に見学したのが大小の天守閣。こちらは西南戦争の少し前に全焼したらしいので、鉄筋コンクリートで再建されたようである。大阪城と同じ様に内部が博物館になっている。特にこれと言ったものは無かったと言うか、そう感じる感性が無かったが、天守閣最上階から望む風景は素晴らしかった。

その後、本丸御殿や飯田櫓などを見学し11時頃に高千穂に向けて出発したと記憶している。

5.高千穂

もう何年くらい前になるだろうか、高千穂は一度訪問したことがあるのだが、今回は知人の希望で訪問した。まぁ初日が当方の目的地で二日目が知人の目的地と言うところである。予定では明るいうちに天岩戸神社と高千穂神社は余裕で訪問できるハズだったが、57号線が大渋滞で高千穂神社を訪れた時は17:00前頃になっていた。

5-1.天岩戸神社

ルート的には高千穂峡→高千穂神社→天岩戸神社を訪問する予定だったが、恐ろしい人出で駐車場に入れず、天岩戸神社を最初に訪問した。天岩戸神社は東西に社があり、西の社には天岩戸にお隠れになった天照大神を岩戸から引きずり出すために神々が相談された場所とされている天の安川原がある。人気の無い早朝などに三脚を持ってくると雰囲気のある写真が撮れるかも知れない。また、本殿脇 ( 写真の左端 ) には古代銀杏と言われる銀杏があり、葉の形が微妙に違うらしい。前回訪れた時に撮影したものを近所の銀杏の葉っぱと比べたときは確かに形状が少し違う気がしたが、その後、同じ様な形状の葉っぱをいたるところで見かけるので、どこがどう違うのか、もう一度写真でも撮って確認しようかとも考えたがやめにした。それから、どうしても西の社が人出も多く中心になっているが、東にもちゃんと社がある

この後、今宵の宿にチェックインするため高千穂町の中心部まで戻った。もう5時近くになっていたが、知人が八大龍王神社へ行きたいとの事だったので、天の岩戸神社まで出かけました。ついでに石神神社にも立ち寄ってみました。八大龍王神社は撮影禁止 ( ストロボの使い方に不慣れで苦戦していたら、地元の古老の方にここは撮影禁止やからシャッターが押せんやろ!と一喝されました。ゴメンナサイ ) 

5-2.高千穂神社と観光神楽

高千穂神社今回も観光神楽を見学した。この神楽は観光用に毎晩午後8時から高千穂神社内の神楽○○ ( 失念しました ) で開催されており、16の地域の皆さんが毎晩順番で演じておられるとの事です。見ているうちになんとなく前回訪問した時に観賞したのと同じ地域のみなさんのような気がしてきました。前回、訪れた時はまだデジカメなどと言う便利なものは所有していなかったので、撮影など出来なかったが、今回はチャレンジして見た。客席からの撮影なので制限が多いがなんとか写っているものもあった。ちなみに○○ ( 失念しました ( 文字&mbsp;) 音汁がアマテラスがお隠れになった岩戸を探し当てる下りの演目とアマノウズメが岩戸の前の宴席で踊る下りのものです。

5-3.高千穂峡

昨日の駐車場の混み具合から9:00までには到着したいと思い、8:00頃宿を出発し、8:15頃、峡谷への入り口に着きましたが、すでに満車との事、別の駐車場に回れとの事だったので指示通り移動すると国道沿いのみやげ物売り場前の駐車場はおろか、その奥の空き地にある臨時駐車場へ車を止めるハメになりました。さすがに、ここから歩くのは・・・と思ったのであと五分で来ますと案内されたシャトルバスを待つこと十数分、ようやくバスに乗り込むととんでもない遠回りをした挙句、どこぞの裏道経由で水族館の前に到着しました。

ここでボートにでも乗るのか、まだ済ませてない朝食でも取るのかと思っていたら、峡谷の遊歩道を終点から始点へ歩いただけで、終了してしまいました。当方は別に構わんのやけどねぇ・・・

その後、どのルートで帰路に着くか考えたのですが、再度熊本へ出るのも・・・ ( 後で後悔することになった。 ) と思ったので、延岡へ廻り、東九州自動車道経由で帰る事にしました。

6.帰路

延岡へ出て、国道10号線を北上し佐伯の道の駅で朝食兼昼食を取り、給油したのが丁度12:00頃だっただろうか。10分くらい走ったところから東九州自動車道に入った。あとは、別府、大分、宇佐を経由して北九州付近で九州道に入り、そこから山陽道か中国道でと考えていたら、東九州道は日出JCTまでで、そこから先は日出JCTから北上する形で宇佐別府道路で宇佐までしか繋がって居ないでは無いか。別府近辺のサービスで案内所を訪ね宇佐から北九州までヒラ道を走るルートと、遠回りになるが大分道で鳥栖周りに走るルートとどちらが早いか聞いたら、通常なら宇佐周りが少し早いとの事。そしてその時点の情報では鳥栖付近では渋滞が発生していないとの事だったので、知人とも相談して鳥栖周りに決定。しかし、最初から熊本へ抜けていたら100km、2時間くらいは短縮できたかも知れない。

その後、九州圏では北九州の門司から下関に掛けて10kmくらいの渋滞。山陽道では広島付近で15kmほど、倉敷付近での少し渋滞し、最後は三木から吹田まで渋滞していました。ここでの失敗 ( 確認のしようが無いが ) 山陽道を選択したこと、四国からの流入や、沿線人口の多寡から考えると中国道の方が空いていると考えた方が正解だったように思う。ちなみに翌日の道路情報はこうなっていた。広島近辺兵庫近辺

7.雑記

チブサン古墳の石室を見学した後、案内していただいた山鹿市立博物館の方が唐突に邪馬台国は九州です。と発言されたのには少々驚いた。同行した知人の「ボク達がどこから来たのか知ってるのか」というフザケタ突込みに対しても知ってて言ったのだ。との返答があったのでもう一度びっくりした。阿蘇ピンク石について質問したが、何も知らなかった事などと合わせて考えると学芸員ではなく、単なる役人か、嘱託の職員だったのかも知れない。チブサン古墳と邪馬台国がどういう関係なのか・・・


阿蘇ピンク石の良いサンプル画像を手に入れたので熊本県立装飾古墳館の中庭?に展示してあった普通の溶結凝灰岩と比較した写真を載せておきます。ちなみにこの阿蘇ピンク石で作成された家形石棺は兜塚古墳のものです。



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最終更新日:2009/11/8