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2010漫遊記

ロ.備後に行く

5ヶ月前から着々と計画したズムズム遠征計画に従いトラの非公式ファーム球団である広島東洋カープとの試合観戦に行ってきた。往路は高速の深夜割引を利用するため、宮島、原爆ドームなど世界遺産登録地も巡ってきた。もちろん広島焼きもハズせません。

1.出発進行

日頃の行いが良いのか悪いのか数日前に南シナ海で発生した台風4号がタイミング悪く直撃するかと思われたが、遠征日直前になってやや速度が速くなったこともあり、なんとか「すれ違い」状態でチケットを予約した12日のナイトゲームには影響無さそうになっていた。ただ、午前中に訪問を予定している宮島や平和公園では雨に逢う可能性は無いとは言い切れないのが辛いところ。


河内の国を午後10:00過ぎに備後へ向けて出発。途中どこかで台風さんの大雨と遭遇するとが予想されたが、特に天候が悪化する事も無く、4:00前に予定していた広島市役所近くの駐車場についた。路駐で朝まで仮眠しようと思ったが、駐車料金が24時間で最大\1,200の設定になっていたので、駐車場を利用することにした。 ( 鷹野橋周辺には同様の駐車場がたくさんあった。料金設定も似たり寄ったりだったのでここを起点に市内観光もありだと思う。 ) 7:00頃まで仮眠してから宮島行きの船が出る平和公園の方へ散歩がてらブラブラ歩いてみた。空模様は予想通りの曇天で何時雨が降ってもおかしくないように思えたが、傾向としては回復傾向であること、西の空に少し青空も見えたこともあり、傘は持たずに行く事にした。

2.平和公園

爆心地の島外科上空

朝の公園というのはどことも同じようなもんだろう。年配の方が元気良く散歩されている姿が目に付く。最初に宮島行きの高速船が出発する元安橋のたもとの船着場を確認しておいてから散策した。平和公園は数十年前に修学旅行で訪れて以来になるのだが、当時の記憶は殆ど残っていない。なんとなく平和記念資料館で見た悲惨な写真のイメージがどこかに残っているような気もするのだが、それすらニュースなどを通して見た記憶かも知れない。今年の平和記念式典には始めて米国の駐日大使が参列するなど核廃絶に向かって新たな一歩を踏み出した感もある。そんな年に何十年ぶりかで広島を訪れる事ができたのもタイガースのお陰?などとここは茶化しておこう。相生通りと挟んだ向かい側にある旧広島市民球場なども巡り、写真も撮ったりしているうちに良い時刻になったので海路宮島へ向かった。


宮島観光から戻ってから再び原爆ドーム付近を訪れると、ボランティアと思われるガイドさん ( ご本人さんも母親の胎内で被爆されたらしい。 ) が資料片手に熱心に説明されていた。すでに認識されている事ではあるが、原爆投下の陰にある多くの政治的な事柄は何度聞いても腹立たしいものである。政治とは一体何なのだろうか?誰のためのものなのか?為政者の責任とは何なのだろうか?民主主義において為政者を選出する国民の責任とは何なのか?改めて考えさせれた。どこの国の方かは解らないが同行者から通訳を受けながら熱心に説明を聴いておられる外国人の方が居たのが印象的であった。


説明を聴いた後、爆心地である島外科 ( 上右側の写真 ) を訪ねてから平和資料館へ向かった。朝の事を思うと公園内の人の数も多くなっており、平和資料館もすごい混みようで閉口した。できればじっくり見て回りたいところだったのだが足早に一巡りして資料館を後にした。

    

3.厳島神社

平和公園の元安橋のたもとから出ている高速艇で宮島までは所要時間約50分で料金は\1,900也。かなり割高であるがこれも一興。港に着くと出迎えてくれたのは鹿さん。厳島神社のあちこちで鹿を見かけることが出来るが、この雰囲気で鹿が居てるのは奈良しか知らないのでなんか違和感が・・・。で、この厳島神社、てっきり清盛の創建かと思っていたらそうではなく推古朝の創建らしい。尤も社運が強かったのはやはり清盛の時代で、その後社運は衰退するが戦国時代になり毛利元就が庇護した頃から社運が再び上昇し、秀吉なども参詣したとの事。ただ、どこかの社で大国主を祭った社があったことや、推古朝に厳島神社が創建される前から弥山が周辺住人の信仰対象になっていたような事を記した案内板があったので、本当の起源はもっと遡ることが出来るのかも知れない。まぁ、現在では一般的に宮島と言ったら「日本三景のひとつ」なんで厳島神社の縁起なんかよりそっちほ方がずっとネームバリューと言うか関心があるのは事実だろう。


散策中、清盛神社の近くでシーカヤックを見かけたので意外に思い近づいてみたら、体験ダイビングならぬ体験シーカヤックとの事。いろいろ話すうちにこの辺りが潮干狩りのメッカである事も判明したし、カヤッキングで鳥居を真下から見ると迫力があるなどとの話を伺った。宮島港?の待合室のトイレに潮干狩りの道具や足を洗うなと書いてあった理由もこれで判明した。また、文化遺産に登録されてから観光客の数も増えたらしいが、その事だけを売りにするのでは無く、もっと広く魅力をPRして集客するべきだと言うような主旨の事までお聞きした。まだ20台半ばくらいの女性であったが、しっかりしている事この上なしの人物であった。


そうこうするうち、昨晩から殆ど何も食べて無いこともあり、血糖値が下がり活性がかなり低下して来たので、宝物館を見学し、千畳敷 ( 秀吉が安国寺恵瓊に命じて建立したとのこと ) でしばし休憩してから参道で見かけた焼き牡蠣でも食する事にした。

何件か焼き牡蠣を売ってる店があったのだが、港に一番近い店ビールセットがあったのでそこで食した。まぁ腹が減ってた事もあるのだろうが、レモン汁を少し掛けて食べると絶品であった。代金は焼き牡蠣2個とビールで\600也。運がよければ1個オマケしてくれるかも知れない。あまりにもの美味さにビールをオプションで追加したらこっちは\300円であった。ちゅことは焼き牡蠣は1個\150也。これは安いと感じた。

帰りはJRの定期便で宮島口へ渡り、広電で広島市内まで戻る事にした。料金は定期便が\170也、広電が\270也で合計\440也。料金的にはかなり激安である。時間的にも1時間程度だったのでは無いだろうか。一般的にはこちらのルートがオススメですね。船もデッキで潮風に吹かれながらボサーッと景色を楽しむのも楽しみのひとつですからね。尤も乗船時間はほんの十数分だったと思いますがそれなりに気持ちの良いものであった。


 

4.マツダスタジアム

時系列的に行くと、宮島から戻った後は平和公園を再度散策して原爆資料館なども訪問したのだが、その辺りはすでにオフセットしてるので省略。で、ひとまず女学院近くの宿にチェックインを済ませて16:00頃に徒歩でマツダスタジアムへ向かった。途中、明らかにトラファンと思われる人たちと遭遇したことは言うまでも無い。特に宿近くで高知からお見えになったと言う家族連れの方と遭遇した。矢野のジャージを着た子供さんが可愛かったなぁ・・・。


野球観戦といえばビールである。甲子園ではオマリーに変わって川藤が「これアウト」とビン・カンの持ち込み禁止をCMでアピールしているが、マツダスアジアムはどうなのか?事前の調査を忘れてたのでホテルで聞いたところ ( フロントで聞いた時には「問題ない」ような事だったが、不安になり調べてくれたのだと思う。部屋に「持ち込み禁止です」との訂正の電話が掛かってきた。お手数おかけしました。 ) やはり、ビン・カンはNGとの事。まぁ、イロイロと理由はあるのだろうが、それなら発泡酒でも良いのでせめて\300程度で販売して欲しいものである。美味しい生ビールとは言え、すでに入場料で\2,000を払っている貧乏人にとって\500はチト辛いところである。その上、甲子園に比べるととんでもない事がここにはあった。なんとペットボトルの持ち込みも出来ないのである。これは異様としか言い様が無い。その情報を弁当を買った広島駅近くのお店で仕入れたので駅ビル内?のスーパーに戻り紙パック入りのお茶を探したが売ってなかったので小さい紙パック入りのお茶と1リットル入りのジュースを買って球場入りした。それにしてもペットボトルがあかんと言うのは如何なものなんでしょうか?広島ファンは血の気が多くてペットボトルの中に液体の爆発物でも仕込んで投げあうのだろうか?そうであれば異様な持ち物検査の厳しさも納得できる・・・。

 

と、イロイロと不満はあるものの、スタジアムに入ると新しいと言う事もあり非常に綺麗なスタジアムである。購入したチケットはレフト1階席だったが、フェンスが低く、グラウンドとの距離が近いため選手がすぐそこに見える。前から3列目の席から撮影したらこんな感じであった。これは35mm換算28mmで撮影したもの、こちらは同120mmで撮影したものである。感覚的にではあるが35mm換算で400mm程度あれば打席の様子もそこそこ写せるのではないかと思った。


ゲームの方は序盤から広島ペース。レフト側と言うのに左の隣の隣に陣取っとるのはなんとカープファン。カンフーバットを振り回して序盤からムカツクくらい威勢が良い。こっちはビールを飲んで、声を嗄らして声援を送るも城島のソロ弾による1点のみ。相変わらず守備に難のある外野陣はシャキッとせんし、カープの廣瀬や赤松は好守で光るものを見せている。5回ウラの無死二三塁のピンチは久保がなんとか切り抜けたが立ち直れそうな雰囲気は感じられない。昔から広島戦は何があるかワカランから・・・と淡い期待を持ちながらも6連敗かなぁ・・・と思った矢先の6回表。スタルツの乱調?に付け込み城島、桜井、狩野が我々が声援を送るレフト1階席の頭上を遥かに越える三連発で大逆転。7回以降はお互い点を取り合い、差は縮まらず、最後は球児が締めて10-6で連敗脱出。ビールを2リットル弱飲み汗だくになり、声を嗄らして応援した甲斐がありました。明日から一端大阪へ戻って京セラドームで好調ヤクルトを迎え撃ちます。相手もそんなに連勝が続く事もないし、マートンが復調気味やし、ここは一泡吹かしてやりたいところですな。

ゲーム終了後は家路を急ぐカープファンを尻目にお約束の六甲颪を熱唱してから広電でお好み焼きを食べに新天地のへんくつや ( 某BBSで広島在住のトラファンの方に紹介していただいたお店。広島パルコの2本南の通り。 ) へ向かった。ここを紹介してくださった方のコメントにはタイガースの選手もちょくちょく訪れるとの事で、それを証明するかのように、壁にはトラ戦士のサイン色紙がたくさん飾ってありました。目を引いたのは2010/8/11の日付が入った木戸コーチの色紙。昨日は雨天中止だったのでココでビールでも飲んでたんやろね。 ( 連敗中のウサ晴らしにしては庶民的すぎるがな。笑 ) とりあえず定番のミックス焼き?と生ビールを2杯頂いて、機嫌よくホテルへ引き上げた。

   
 

5.大和ミュージアムと鉄のくじら館

1/10スケールの模型

明けて13日。なんとなく呉へ行ってみようと言う事でホテルを9:00過ぎにチェックアウトし、ナビを呉にセットして出発進行。地方の高速尾道路無料化社会実験の所為か、やけに高速が込んでいて時間が掛かったが10:00過ぎに呉に到着。道すがら大和ミュジーアムと言う看板を見かけたので早速行ってみる事にした。呉と言えば大和を建造した造船所があったところ、また「仁義なき戦い」のあったところでもある。外見ヤ○ザ以上にヤ○ザっぽい現沖縄在住の知人の出身地も呉である。そういえば、最初に就職した会社の得意先の担当者の方も呉出身の方だったと記憶している。大変お世話になったがどうされているのか・・・。


大和ミュージアムと言うだけあって太平洋戦争時の巨大戦艦大和に関する博物館で、入場料は常設展が\500也。今回は国際宇宙ステーションに関する企画展が併催されており、セットで\700也であった。ミュージアムは10:00過ぎにも関わらず、来館者で溢れていた。皆、ヒマで他に行くところが無いのか、何時の時代も兵器が持つ魅力に惹き付けられる人が多いのか、上映されている?大和に関する映画の所為なのかは解らないが、博物館にとっては有難い話だろう。個人的にはやはり兵器の持つ美しさには惹かれるものがあるし、なんと言っても兵器は最新技術の結晶であり、良きにつけ悪しきにつけ、それがもたらす功罪は計り知れない。時間があればゆっくり見たいところだがそうも行かず足早に館内を一回りした。幸運?だったのはゼロ戦62型の実機を復元したものが展示されていた事である。大和はモチロン模型でしか見れないが、ゼロ戦は実機を展示している施設もあり、そこへ行けば見ることも出来るが、まさかここでお目にかかれるとは思わなかった。写真撮影も特に禁止されていなかったので数枚撮影させて頂いた。今から思えば撮影可能な展示物は片っ端から撮影しておけば良かったと思う。

     あしきお      

大和ミュジーアムを出ると直ぐ隣に海上自衛隊の資料館があったので尋ねてみた。詳細はこのへんを見ていただくとして、間近でみる潜水艦はまさにクジラのようでもある。 ( といってもクジラを間近<で見た事は無いが・・・ ) ここでは左写真の潜水艦「あきしお」の艦内を見学することが出来、潜望鏡から外界を除くこともできた。それにしても潜水艦の艦内は狭く、艦長室と言えども小さくて居住性は悪そうであった。潜水艦以外には、掃海に関する展示があった。軍艦と言えば大和では無いが、鋼鉄製と考えがちであるが、ちょっと考えたら当然の事で、掃海艇と言うのは磁気機雷対策で木造船が使われているようだ。ちょいとwikipediaで調べたらカーボンやFRP、など国によっていろんな材質を利用しているようである。掃海と言うのも地味な仕事であるが、朝鮮戦争でも非公式に出動したり、湾岸戦争の時のペルシャ湾へ出動したりと日本の自衛隊は海外貢献を立派に果たしているのである。


そう言えば、先月天保山で見かけた補給艦のおおすみは呉所属の艦船だったと思う。あの時も隊員の方と言葉を交わしたが、礼儀正しくハキハキと素晴らしい話し振りであった。近辺にたむろしていた水上警察の警察官と思われる若造とは雲泥の差であった。

   

6.雑記

いつもは古墳がどこかに絡んでいるが、今回はそのカケラも無かった。メインは野球観戦でそのついでに平和公園と宮島や呉へも足を伸ばしたのでいつもにも増して中身が薄くなってしまった。マツダスタジアムではバースと好勝負をした津田投手のプレートがあるらしいのだが、それも見逃してしまった。また大和ミュージアムもじっくり見学する事が出来ず残念であった。平和公園と大和ミュジアムと海自資料館、相反するもののようでありながらどちらでも心を打たれたし、どちらもが良きにつけ悪きにつけ我々に多くのものを与えてくた。まことに人間と言うのは複雑怪異な生き物であると改めて痛感した。


 
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イ.吉備に行く

数年前に深夜割引を利用して岡山へ造山、作山を見学に行ったが、無知の所為もあり、他にも存在する多くの遺跡をめぐる事が出来なかった。それ以来企んでいた再訪問の野望をようやく実現する日がやって来た。前回の経験を元に少しはまともな探検になるかなぁと思ったが・・・どうなったのでしょうか。

出発に先立って、前回訪問した時に風土記の丘郷土館でゲットした資料やネットで造山付近の遺跡を調べ、面白そうなところ、行きたいところをカシミールに入力し、gekoへウェイポイントとして転送した。問題は国土地理院の1:12,500地図上でプロットした座標がどれほどの精度を持っているのか・・・。また、道具としてチャリンコを用意した。造山と作山、場合によっては風土記の丘の駐車場をベースにチャリンコを利用する予定である。他にもLEDライト、コンパスなども準備した。気分は国際救助隊、バージルの2号とアランの4号である。


1.出発進行

日帰り貧乏イベントなのでいつもの貧乏友達 ( スマン ) を同行者として伴った。最近、古事記を読んでるらしいので飛鳥から平城に掛けての時代については、ちょっと五月蝿いところがある。笑。特に道鏡がお気に入りの様子で、天敵は清麻呂さんだとか・・・。 おっと、余計は話はおいといて河内国を4:00AMに出発しました。

2.尾上車山古墳 ( おのえくるまやまこふん ) 

吉備SAに6:30頃に到着したので、軽く朝食を取って最初の訪問予定である尾上車山古墳へ向かった。2号にはナビがあるのだが、使い手がヘボなので吉備津神社から古代吉備埋蔵文化財センターの前を過ぎた先の分かれ道を黒住教へ向かうべきところ、反対方向へ向かってしまった。

よって、一度、山を下って、西花尻から新幹線のガード沿いに東進し、花尻あかね町あたりを左折 ( 北進 ) し、改めて黒住教の本部から吉備津神社方面へ向かう、本来予定していたルートを辿ることにした。このルートを進んでいくと、右カーブで山を登って行き始めたあたりの道沿いに車山古墳を示す標識がある。標識のところに駐車するのはちょっとダメっぽいので100mほど先の反対側斜線の道路脇に駐車しました。画像の左端の方が前方部、鉄塔の左下あたりが後円部になります。念のためですが、この画像は古墳をバックに入れるため黒住教本部方面から下山する方向で撮影しています。

2-1.概要

現地案内板によると、尾上車山古墳は、墳丘長130mで吉備中山南東部の標高50mの尾根部先端に位置しており、墳丘は後世の段畑開墾が著しく本来の築成ははっきりしないが三段築成であった可能性が強く、築造時期については、四世紀半ばと推定され、孝靈 ( こうれい ) 天皇の皇子、大吉備津彦命陵墓として宮内庁の管理下にある中山茶臼山古墳に続いて築かれた大首長墓であると記されている。

個人的にはこの画像などを見ると前方部はほとんど開いていないように見え、ほぼ平坦であることから柄鏡型の前方後円墳に違いないと妄想している。ひょっとしたら桜井茶臼山と相似墳かも知れんなぁと言うのが当方の感想。

2-2.立地

現地案内板に別名「ギリギリ山」との表記があり、築造当時は山すそまで海が迫っていたとも記述されている。そこで、宮川先生がいつぞやの講演でおっしゃっていた古墳時代の海岸線は現在のそれより約2m高い状況ををカシミールでシミュレーションしてみると、当古墳はまさに吉備津の入り口に位置する灯台のごときシチュエーション ( 水色の部分が現在の標高2m ) である。ついでにこの辺り一帯の様子を示したのがこちらの図、現在の児島半島が防波堤の様に沖合いに浮かび、瀬戸内海のさらに奥に位置することとなり、穏やかで暮らしやすそうな土地だったであろうとの印象を受けるのは当方だけだろうか?

そういえば、当方が生息している河内から和泉、摂津にかけても当時はよく似た状況だったことを考えると、吉備に力を持った豪族が誕生したように、摂津や河内、和泉にも広い意味で河内王朝を実現するような大きな力を持った勢力が存在しても不思議ではない気がする。

2-3.被葬者像

案内板の表記通り、古墳時代初期にこの地域一帯に君臨した王の墓であろうと思う。気になるのは400mほど西の庚申山山頂にある矢藤治山古墳との関係である。果たして同じ系譜のものなのかどうか・・・。いずれにせよ近辺には尾上車山に続きそうな大型前方後円墳は見られず、時期はわからないが横穴式石室の遺構が多数存在するようなので5世紀にはこの系譜の豪族は地域首長の座を失ったのかも知れない。

3.矢藤治山古墳 ( やとうじやまこふん ) 

墳丘上?に矢藤治四等三角点が設定されている。地図には庚申山と記されているが、三角点名称は矢藤治なんですねぇ。そう言えば、岸和田の久米田にある貝吹山の後円部墳頂でも見かけた記憶があったので調べてみたら、こちらは福知山三等三角点だった・・・。いずれにせよ、こんな事を書くしかネタが無いくらい何も無い場所である。現地案内板が無いと、山頂っぽいところに中国電力の鉄塔が立ってるだけである。


3-1.概要

現地案内板によると墳長約35.5m、後円部高さ3m、前方部長さ11.8m ( よって後円部径は23.7m? ) の前方後円墳で撥形の前方部を有するとなっている。古代吉備文化財センターで入手した資料に少し手を加えたのがこちら。なんとなく纒向に点在する古墳を思い出したので、資料を調べてみたら、良く似た平面プランを持つ古墳があった。いずれも資料の出所は橿原考古学研究所付属博物館である。ツヅロ塚古墳小川塚東古墳


現地案内板の終末期の特殊器台と特殊壺が出土したという表現が気になったので少し調べて見ると、近藤先生の「前方後円墳の起源」という書籍の中で矢藤治山型特殊器台、特殊壺が紹介されており、向木見型の最終亜形式に分類されていました。特殊器台の変遷が立坂型特殊壺、特殊器台→向木見型特殊壺、特殊器台→宮山型特殊壺、特殊器台→都月型円筒埴輪、A類特殊壺及びB類特殊壺と遷移し、箸中山や西殿塚で宮山型や都月型のものが見つかるということは、当古墳に埋葬された人物の系譜はヤマト政権に参画することが無かった・・・と言うことになるのでしょうか?

3-2.立地

先ほどのシミュレーション図を見ても解る通り、尾上車山同じような立地である。今でこそ藪の中であるが築造当時は眼下に海岸線を見下ろす事ができたのかも知れない。


3-3.被葬者像

個人的には中山茶臼山や尾上車山の被葬者の先祖であって欲しいのだが、どうなんでしょうか?中山茶臼山と比べても共通点、相違点ともに存在するし、尾上車塚と比べるには築造時期に1世紀近くの時間差がありそうだし、まして尾上車山の編年根拠がそれほど強く無いとすれば・・・ここは一般的に地域の首長墓と言うことになるのかも知れません。 ( 妄想不足で申し訳ない ) 

4.中山茶臼山古墳と岡山県立古代吉備文化財センター

中山茶臼山は陵墓参考地になっているので、立ち入る事は出来ないが、岡山県立古代吉備文化財センターが開館するまでに少し時間があったので、立ち寄ってみた。運良く、文化財センターの門が空いていたので駐車場に車を止めさせてもらった。中山茶臼山古墳へは文化財センターの少し吉備津神社よりのタクシー会社の前にある案内板の脇から階段を登って行くと辿り着く。

登りきると、ちょっとした広場になっていて、そのまま左手へ進むと拝所に辿り着く。なんと呼ぶのか知らないのだが、陵墓参考地に見られる立て札を見ると、欠史八代の一人とされている孝靈天皇の皇子である大吉備津彦命 ( 崇神朝の四道将軍の一人 ) の墓と記されていた。古代吉備文化財センターで入手した資料によると、全長約120m、後円部径約80m、前方部長40m、後円部と前方部の比率が2:1となっており、矢藤治山弥生墳丘墓 ( 現地案内板には古墳となっていたが ) と同じであると記されている。またここで採集された特殊器台形埴輪は文様の特徴などがこれまでに岡山県内や関西地方で見つかっているものと異なるとも書かれています。ついでに借用した墳丘の測量図を見ると矢藤治山より古墳らしく見える。

矢藤治山の被葬者との関係ですが、出土した特殊器台の文様が今までに岡山県内や関西地方で見つかっているものとは違うとの事 ( 岡山県古代吉備文化財センター発行の資料による ) なので、残念ながら矢藤治山の被葬者とは別系譜の人物では無いでしょうか。ここは一般的に地域の首長墓と言うことになるのかも知れません。 ( 妄想不足で申し訳ない ) 

階段を登りきったところを右手に進むと結構見晴らしの良い場所になっている。ここは拝所とは反対方向なので、拝所から見たら眼下に海岸線が・・・と言うところまでは行かないが前方部墳頂にでも登ればそこそこ見晴らしは良いのかも知れない。よって首長墓の築造場所としては絶好の位置であることに違いはない。岡山市教育委員会が発行したとある古墳の現地説明会の資料には中山茶臼山古墳は特殊器台形埴輪を持つ古墳として4世紀初めに編年されていた。 ( ちなみにその資料では尾上車塚は4世紀半ば頃に編年されているがその根拠は弱いと分類されている。 ) 

5.吉備津神社

祭神は当然ながら大吉備津彦命。社伝によると仁徳天皇が行幸 ( 黒媛との浮気やね。お陰で磐之媛命が怒って大変な事に・・・笑 ) された時に大吉備津彦命の業績を吉備族から聞かれ、その徳をしのんで吉備国の祖神として崇め奉斎されたと伝えられているらしい。

本殿と拝殿は室町時代の再建で建築様式は「比翼入母屋造」で全国でもここだけの様式だそうで、吉備津造とも称され、国宝に指定されている。

なんか社殿の案内板に書いてあった黒媛に反応してしまいますが、民のへっついさんに煙が立たないのを見て嘆かれたのも、別嬪のおねーさんにころりんちょとなったのも同じ人物なんですよねぇ。事の真偽は別にしてこういう人間っぽいところは好きですねぇ。これって潤色なんでしょうか。森先生の本をまた借りて読まんとあきませんわ。笑


6.備中高松城跡

羽柴秀吉が水攻めにしたことで有名な平城? ( と呼んで良いのかな。 ) 元々低湿地に築城された砦?のような城でその地形を利用し容易に進攻することが出来なかったが、周囲の地形に着目し城の南側を走る街道を上手く堤に利用することで、要所だけに新たな堤を築くことで効果的に水攻めを行う事が出来たらしい。まさに知能派秀吉ならではのローリスクハイリターンの素晴らしい戦法である。 ( 土蔵を利用した資料館があって、そこのおばちゃんが詳しく説明してくれました。但し、記憶違いがあるかも知れません。 ) 画像は左が宗治公が自刃された場所。左が宗治公を慕って家来が互いに刺し違えて殉死したところ。

それにも増して有名なのはやっぱり城主の清水宗治公。戦国時代には希少価値とも言える精神の持ち主で、とことん盟主である毛利氏に義を貫き、最後は家臣の命と引き換えに自刃して城を明け渡すと言う行動に出ている。有る意味、義やら愛やら謳っていた某山城守 ( 個人的には家康に意見したところが大好きだが ) などより義に徹した人物なのに違いない。

が、そんな事よりも歴史的にもっと有名なのは、城を包囲中に本能寺の変を知るや否や、すぐさま宗治公を自刃に追い込み、一目散に大坂へ取って返し、山崎で光秀を破り、天下人への足がかりとなった秀吉の中国大返しであろう。

敢て言う、しかしながらである。この時宗治公が残した辞世の句が、浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して、後に秀吉が残した辞世の句が露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢・・・どちらが人生の勝利者だったのでしょうか?

7.楯築弥生墳丘墓 ( たてつきやよいふんきゅうぼ ) 

楯築弥生墳丘墓は王墓山丘陵の6.5ヘクタールを王墓の丘歴史公園として整備した中の、楯築地区に存在する。他にも日畑赤井堂地区、王墓山地区の合計三つの地区が公園内に含まている。公園内には楯築遺跡、王墓山古墳、日畑廃寺などの史跡のほか、60もの古墳がのこされているらしい。 ( 現地王墓山公園案内による ) 当初は王墓山古墳群も見学する予定であったが時間の関係で楯築だけを見学するに止めた。

余談ですが、駐車場は楯築地区にのみ4〜5台駐車可能なスペースがありますが、墓地に隣接しているため墓参の方も利用されているようです。住宅街なので頓着しなければ路駐も可能かと・・・。

7-1.概要

現地案内板によれば径約50mの主墳を中に二つの突出部を備えた弥生時代後期の墓で、現存全長72m。大きく破壊、あるいは喪失した二つの突出部には石列が並び、飾られた丹塗りの壺形土器多数が置かれており、墳丘や斜面の一部には拳大の円礫が置かれていたようです。主体部は排水施設を持つ木槨木棺墓で棺内には30kg以上の朱が敷かれていたとの事。

楯築は当方が知る限り、他に例を見ない木槨木棺の主体部であったり、楯築神社の御神体として祭られていた亀石に酷似した弧帯石なる謎の石や破砕された特殊器台や特殊壺が墳丘上から見つかったり、墳丘上にはドルメンとも磐座とも思える巨大立石があったり、木棺からは大量の水銀朱が発見されるなど、後の古墳に見られる属性と見られない属性を持ち合わせている奇妙な墳丘墓である。

7-2.立地

カシミールと国土地理院の地図

当時の入り江の最も奥まったところ、吉備津が北東奥とすれば足守川が流れ込む北西奥、現在の向山の山頂付近に位置します。古墳時代前期に至るまでの地域首長墓の位置としては典型的な立地では無いでしょうか。


7-3.被葬者像

地域の首長の墓で有ることは間違い無いとは思うが、それがどんな人物だったかは全く想像が付かない。後の古墳時代に続く要素も多く持っている半面、木槨木棺など他に例を見ない主体部構造 ( 強いて類例を上げればホケノ山の石囲木槨が上げられるのかも知れないが、吉備において類例が見られない。 ) など、墳墓としての謎がそのまま被葬者の謎になってる感じです。

目一杯、妄想を膨らませて見れば、半島から渡ってきた貴人、あるいはなんらかの技術などをもたらし、最終的には吉備の人として在地首長に仕え、一生を終えた人物の一代限りの墓と言う風に考えることは出来ないでしょうか?

8.造山古墳 ( ぞうざんこふん ) 

南東側から 北西側から

正式名称は「つくりやまこふん」のようですが、総社市の「つくりやまこふん」 ( 作山古墳 ) と区別するため「ぞうざん」と呼ばれているようです。今回は二回目の訪問になります。パッと見で、変わったところは以前来たときに比べると墳丘形状が良く解るようになってたことでしょうか。造山駐車場でお会いした倉敷在住のコフニストの方のお話によると地元の方々がボランティアで整備されてるとの事で、この日も後円部東南側斜面で伐採作業をされてました。感謝です。画像は左側が駐車場から撮影したもの、右側は北西側、恐らく、新庄車山古墳のあったあたりから撮影したものです。手前の畝がカーブしてるのは古墳の名残では無いかと勝手に妄想しています。笑

墳丘の印象はとにかくでっかいのひとことです。いかに巨大古墳が集中する畿内在住者と言えども、立ち入る事の出来る古墳としてはこの造山古墳が日本最大であるため、こんなにでっかい古墳に登るのは数年前に訪れて以来と言う事になります。今回は前方部南隅角から登り、後方部墳頂を経て後円部の墳頂に立った時は改めてその広さに驚きました。築造時期が近いと思われる葛城市にある墳丘長238mの室大墓には長持形石棺を持つ石室が二つありますが、ここの広さではその数倍の石室があっても不思議ではないくらいの広さです。ただ、秀吉の毛利攻めの時、毛利方がここに陣を敷いた様 ( 前述の高松城跡の資料館で見つけた資料 ) なので、その際に大きく改変された可能性を考えておく必要はあると思います。

8-1.概要

現地案内板によると墳丘長350m、後円部径200m、前方部幅215m。全国でも第四位の規模を持つ前方後円墳で、未調査の為か築造時期に関する記述は見当たりませんでしたが、5世紀であることは間違い無いと思います。個人的には白石先生の編年で言うと5世紀半ば、8期のあたり、畿内では誉田御廟山古墳や大仙古墳が築造された頃では無いかと思っています。 ( 岡山市教育委員会のとある資料では埴輪年々で3期になっていた。 ) ただ、そう仮定すると前方部の荒神社に存在する阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺の身の存在が気になります。

当方の知る限り、畿内では古市古墳群の市野山古墳の陪冢から出土した宇土産の阿蘇溶結凝灰岩製の舟形石棺が初見だと思いますが、市野山の築造時期はもうすこし時期が下るので、ひょっとしたら吉備が畿内大王家よりも先に九州勢力と関係を深め、そののち大王家は吉備経由で肥後から石棺を調達することになったのかも知れませんね。それと身の下部が垂直っぽいところが舟形石棺と言うより家形石棺風であったり、小口面が少し掘り込まれて?いて側との合わせ部が長持形風に見えるのもちょっと気になります。また市野山の築造から築造時の基本尺度が1尺23cmの漢尺から25cmの南朝尺に変ったのではないかと岸本先生が仰ってましたが、このあたりの情報と言うか、制度なども同様に吉備経由で導入されたのかも知れません。

8-2.立地

カシミールと国土地理院の地図

典型的な大王墓の立地といえるのではないでしょうか。左画像で赤いラインが山陽道。右端の水色の部分は古墳時代の海岸線と想定される標高2m以下の地域。直ぐ東を流れるのが足守川。水運、陸運の要衝であり、山陽道を西へ1kmほど行けば備中国分寺があります。現地案内板には自然丘陵を削り、或いは盛土して築造されたと記述されていましたが、周囲の地形からもそれが伺えます。

8-3.被葬者像

吉備国の大王しか考えられないでしょう。ただ、吉備といってもその範囲は広く律令国家で言えば備前、備中、備後、美作が含まれるようで、そう考えると全国規模第四位の規模を持つ造山古墳の被葬者は、実質的にはヤマト政権の中枢を為す畿内勢力に次ぐ第二位の勢力の王であったと言えるのかも知れません。

8-4.陪冢

これだけの規模を持つ古墳だけあって、6基の陪冢を有しています。現地案内板によると1号墳 ( 榊山古墳 ) は直径40mの円墳または造り出しを持つ円墳で、神獣鏡、銅鈴、馬方帯鈎や伽耶系陶質土器が出土。2号墳は周濠の存在する方墳で外堤上に埴輪列を伴い、。3号墳は直径約30mの円墳。4号墳は直径約35mの円墳、あるいは前方後円墳で、墳丘から円筒埴輪、形象埴輪が出土。5号墳 ( 千足古墳 ) は全長75m、三段築成の前方後円墳。吉備地方で最古形式の横穴式石室が築かれ石室内には直弧文の刻まれた石障があり、鏡、碧玉製勾玉、鉄鏃、埴輪などが出土している。6号墳は直径約30mの円墳。となっている。

千足装飾古墳。右後方は造山

特に注目すべきは5号墳の千足古墳で、それが持つ横穴式石室について、先述のコフニストの方に頂いた2009年10月の岡山大学考古学研究室発行の「千足古墳の三次元計測に関する資料」を見ると、5世紀末頃のものと思われる肥後型石障系石室の中の「肥前系」とあり、内部構造としては横穴式石室以外に粘土槨もあり、これらのほかにも石室の可能性があると書かれている。

横穴式石室の時期の5世紀後半と言うのが、同じ様なタイプの石室が九州で見られるのが5世紀後半と言う事なのか、石室の構築時期が5世紀後半と言う事なのか良く解らないが、千足古墳が造山の陪冢として築造されたのであれば、5世紀半ばの築造となり、その時に構築された石室は粘土槨の方で、横穴式石室は後から構築された可能性もあるのでは無いだろうか?
それは榊山古墳と同じ時期に発掘されたため混乱があるかも知れないと前置きが付いているものの、粘土槨上から出土した武具系?遺物に、巴形銅器12点、刀剣、甲冑などがあるのに対し、石室内からは鉄鏃が数点しか見られないと言う事からの妄想であるが・・・。

9.作山古墳 ( さくざんこふん ) 

前方部から後円部方向 後円部墳頂から国分寺を望む

こちらも正式名称は「つくりやまこふん」だが、造山古墳と区別するために「さくざん」と呼ばれている。ここも二度目の訪問になるのだが、前回きた時は墳丘上からの見晴らしがもう少し良かったような記憶があるのだが、今回は造山の墳丘からの見晴らしが良すぎたので、そう感じただけなのかも知れない。

こちらの「つくりやま」も全長242m、後円部径174m、前方部長さ110m、同幅174mの全国第九位の規模を持つ巨大前方後円墳である。現地案内板にある測量図

9-1.概要

現地案内板によると独立した小丘陵を削り、整形・加工したもので、一部後世の改変を受けているものの、前述した規模を持ち、三段に築成された墳丘のテラスには密接して円筒埴輪が立ち並び、斜面は角礫で覆われているとの事。造出しは北側にのみ現存し、南側については存在は疑問とされおり、周溝は無く、 ( 周囲に? ) 複数の残丘を残すなど巨大な墳丘のわりには端正さを欠く面もある。と記載されている。築造時期については墳丘の形態や円筒埴輪の研究から5世紀中ごろとされているとも記述されていますが、気になるのは造山との前後関係です。

墳丘形状と言う点ではずいぶん前ですが、故上田先生が築造企画の研究の中で仲津山古墳と比較されていたと記憶しています。埴輪と言う点では造山二号墳から出土したとされる円筒埴輪には黒斑があるので窖窯導入前であるこがわかりますが、作山古墳出土とされる埴輪片からは当方に黒斑の有無はわかりません。と言う事で何か資料は無いかいなぁと吉備古代文化財センターのパンフを見ると、年表が載っていました。笑

9-2.立地

カシミールと国土地理院の地図

造山古墳の西約3kmほど、山陽道の直ぐ北側に位置します。さらに西へ4kmほど先には高梁川が流れています。

9-3.被葬者像

考え方として二つあると思っています。ひとつは素直に造山の被葬者と同一系譜の人物、すなわち造山の被葬者の次の世代の人物の墓であると言う考え、もうひとつは造山古墳の被葬者と吉備の派遣を競った、あるいは並立した首長 ( 全くの突飛な妄想であるが、高梁川流域以西を勢力基盤とした系譜の人物であるとか・・・それなら何故高梁川東岸に造墓するのか?ちゅう疑問は置いといて ) であったと言う考え。後者の場、作山は造山に比して、案内板の記述にもあるように、残丘が存在したり、周溝が存在しない ( 造山にはその存在が確認されている模様 ) こと、また陪冢も見られない?事などから、結果的には吉備の王にはなり得なかった系譜の最後の人物が被葬者と言う事になり、造山の被葬者の次の世代は千足古墳の横穴式石室の被葬者 ( その場合、千足古墳は造山の陪冢ではなく、5世紀後半の築造と解釈する。 ) になるのでは・・・と言うのが当方の妄想です。笑

10.その他いくつかの古墳

貧乏人根性で出来るだけ多くの古墳を巡りたいと言う事で、殆ど何も解らない横穴式石室を持つ古墳を何ヶ所か回ったので紹介しておくことにする。

10-1.こうもり塚古墳

羨道入口から 玄室入口から

国分寺と国分尼寺の中間にある南向きの尾根の先端部にある全長100mの前方後円墳です。現地案内板によると、玄室内の家型石棺は井原市野上町産の浪形岩 ( 貝殻石灰岩 ) を材料としていること。他にも陶棺や木棺が納められていたと記載されています。一時期は黒媛の墓とされていた事があったらしいですが、あまりにも時代が違いすぎますよね。残念ながら築造時期に関する記述がありませんでしたが、なんとなく6世紀の半ばまでの築造では無いかと思います。

被葬者像は造山や作山の系譜とは全く関係の無い人物だと思います。 ( 何の根拠もないです。 ) 


10-2.角取山古墳 ( すもうとりやまこふん ) 

作山古墳の駐車場から4号に乗り換えて回りました。造山でも陪冢群を回るのに4号を利用したので二回目の出動です。
現地案内板によると5世紀に築かれた全国でも珍しい方型古墳 ( 高さ7m、南北30m、東西37m ) でかって地域の支配者であった豪族の墓陵と言われているらしい。名前の起こりは古墳の西側に土俵を設け、氏神・御崎神社の秋祭り最終日に奉納角力が行われ、戦前まで続いていたことから角力取山と呼ばれるようになった。との事。

方型古墳とは方墳の事を言ってるのだろうか?全国でも珍しいとの事だが・・・。残念なことに、恐らくここでsuntoのコンパスを紛失してしまった。悲


10-3.道満塚古墳 ( どまんづかこふん ) 

石室入口 中から

4号 ( チャリンコ ) でgekoの表示を見て走りながら、辿り着けんかなぁ・・・と思っていたのですが、なんとか辿り着く事ができました。地図で見るよりも結構、山の上にあったと言うのが正直な印象です。浄化センターのウラ山?にあるので、浄化センターを目標にすれば比較的簡単に行き着けると思います。わき道へ入る様に促す標識があるのでたぶん見落とす事は無いだろうと思ったのですが、同行者は見落としてしまい、そのまま山の中へ・・・。

現地案内板によると6世紀後半に築かれた地元有力者 ( えらい表現ですなぁ・・・ ) のお墓で、現存する山手村 ( おそらく今は町村合併で存在しない名称 ) 内の後期古墳では最大の円墳のようです。サイズは直径12m、高さ約3m、石室については長さ6.5m、幅1.4m、高さ1.4mとありました。画像から右片袖式であっただろうと想像できますが、羨道部がなくなっていますな。わき道へ入る標識のところから下界を見下ろすとこんな感じ。手前の施設が浄化センターで、中央部左の山裾あたりに国分寺の塔があるのですが・・・解らんわ。笑

11.雑記

数年ぶりの吉備訪問でした。前回も訪問後、訪問記 ( くだらんものだったと思いますがサーバーをクラッシュさせて消失しました ) をまとめているうちに多くのものを見逃したことが解り、悔しい思いをしたので、今回は下調べをして何ヶ所かの訪問予定地を決めていたのですが、時間の制約などもありまたもやなんとなく中途半端な結果に終わってしまいました。特に楯築弥生墳丘墓については近藤先生の書かれた書籍を読んだのが数年前だったこともあり、悔しい結果の最たるものでした。

5m超の天井石

反対に、倉敷のコフニストの方とお会いできたのは幸運でした。千足古墳に関する資料を頂いたり、見つけるのに1年以上要したと言う某所の巨大天井石 ( 長さ5m越 ) を持つ横穴式石室 ( 左の画像 ) を案内していただいたりと、無知な余所者には予想だにしないものを目にすることができました。
本文中でも書きましたが、横穴式石室については全く何も知らないので5m越の持つ意味を理解できていないのですが、築造時期が7世紀半ばから後半と推測される平群谷の ( 奈良県生駒市 ) 西宮古墳 ( 玄室の側壁や天井石は一石で構成されている ) の玄室の天井石の長さが3.6mなのでやはりこのサイズは凄いのかなぁと思います。 ( もっとも、西宮古墳の場合は玄室の幅、高さが1.8mである事や、切石造りであることから、企画性とか精美さとかそっち方面を取り上げるべきかも知れませんが。 ) 

いずれにせよ、コフニストさんには改めて謝意を表したいと思います。

更新日:2010/03/24

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